2017年9月の霊想



   出会いの接点(9月3日)


 新進気鋭の38歳の女性外科医の先生は、クリスチャンのお父様を尊敬し、自分もクリスチャンになりたいと願っていました。ただ、「イエス・キリストが神である」ことが腑に落ちませんでした。
 誰にでも、その人ならではの真実と出会う一点があります。イエス・キリストが罪なき姿で生まれたこと、最大の愛である十字架を担われたこと、死からよみがえられたこと等々。彼女にはそれらが入る心のポケットがありませんでした。ただ、彼女は極めて「力」ということにこだわりを持っておられました。
 ある日、聖書を読んでいると、イエス様が捕らえられ、一緒にいた者が剣を抜いて相手の片耳を切り落とした時、キリストが「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」(マタイ26・52)と言った箇所に心が留まり、思いを深められました。彼女が聖霊様によって教えられたことは、本物の強さを持つ者は剣(力)に頼らないこと、本当の強さをキリストに見いだし、「この方こそ、私の神」と信仰告白なさいました。
 翻ってあなたはいかがですか。あなたとイエス様の出会いの接点は何ですか。イエス様をお伝えする時、相手を良く知り、相手の必要を満たしてくださるイエス・キリストをご紹介しましょう。



 いつか調べてみたかった(9月10日)


 ノーベル賞は世界的に知られていますが、「イグ・ノーベル賞」という賞もあります。これは、世の中を笑わせ、考えさせた研究や業績に贈られる米国の賞です。
 2014年、日本の北里大学教授の馬渕清資(まぶちきよし)さんが「イグ・ノーベル物理学賞」を受賞しました。日本人の受賞は、これで8年連続になります。教授の研究は、「バナナの皮を踏むと滑る」でした。滑りやすさの指標となる「摩擦係数」を実際に調べた研究はこれまでなかったそうです。皮の内側を下にして踏みつけると、皮がないときの約6倍も滑りやすくなることが判明しました。皮の内側には、小さな粒状の「小胞ゲル」と呼ばれる物質が無数に集まり、踏みつけるとヌルヌルした粘液が出て、摩擦が小さくなるのです。
 長年、「いつか調べてみたかった」ことを実行に移しただけでした。
 
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」(ピリピ4・6)
 
 今週も、生活の中で「いつか調べてみたかった」ことにチャレンジしてみてはいかがでしょうか。きっとすばらしい天来の気づきが与えられるでしょう。




 海を生け簀に変える(9月17日)

 少子化に伴い、大学によっては存続が危ぶまれている学校があることをニュースでお聞きでしょう。しかし、一方で、近畿大学のように、ユニークなプログラムによって前進している大学もあります
 560億円の借金を完済し、利益を上げているこの大学は、様々なプログラムの一つに、ご存じのクロマグロ養殖があります。完全養殖に成功し、それを販売もしているのです。マスコミからの「天然マグロと近大マグロの味はどう違うのか」という指摘が多いそうですが、それ以上に、このプログラムの壮大な試みは、多くの人々に希望と勇気を与えています。
 近畿大学初代総長の世耕弘一(せこう・こういち)氏は、「遠洋漁業だけが漁業ではない。沿岸を開拓し、そこで魚を養殖すればよい。広い海を生け簀に変えるのだ」と語られました。何と遠大なビジョンでしょう。
 あなたの人生の広大な試練の海も生け簀に変える、そのような思考、視点に目を向けたいものです。
 
   苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
   これによってわたしはあなたのおきてを
   学ぶことができました。 (詩篇119・71)




 宣教師たちが見ているところ(9月24日)

 今から450年ほど前、初めて日本に来たヨーロッパ人宣教師たちは、日本人の徳の高さや優秀性に驚きました。フランシスコ・ザビエルは、日本滞在3ヶ月後、インドのゴアにあるイエズス会に宛てて、次のように報告しました。「この国民は自分たちがこれまで接触してきた諸国民の中で最高に傑出した人々である。まだキリスト教化されていない国民で日本人ほどに優秀な者はない。彼らは総体的に親しみやすく、善良で悪意がない。日本人は大概貧乏である。だが武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥だと思っている者は一人もいない」。また、幕末から明治初期に日本を訪れたロシア人宣教師ニコライは、日本人の、善良で、互いに助け合う思いやりに満ちた姿を驚きをもって書き残しています。
 パウロも、ギリシャに行った時、「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。」(使徒行伝17・22)
と言いました。
 福音宣教に成功した人たちの共通点は、相手の持っている良いところを見ていることです。相手の良さを認め、それから本当に伝えたいことを指し示してゆくことができれば、どの時代の人たちにも、またどの国の人たちにも、真の神の存在をお伝えすることができるのです。