2018年11月の霊想



   天来の恵みを味わう(11月4日)


 名優、森繁久彌さんのエピソードには枚挙にいとまがありませんが、この出来事から、人生の深みを味わうことができます。
 『屋根の上のヴァイオリン弾き』の九州公演の時、最前列で居眠りをしている少女がいました。森繁氏をはじめ俳優たちは不快に思い、そばで演技をするとき、「起きろ、起きろ」とばかりに床を高く踏み鳴らしましたが、ついに目を覚ましませんでした。
 アンコールの幕が上がり、少女は初めて顔を上げました。両目が閉じられていました。居眠りと見えたのは、盲目の人が全神経を耳に集め、芝居を心眼で味わっておられたからでした。自分たちの心ない仕打ちを恥じ、森繁さんは舞台の上で号泣なさいました。
 不安や怒りが、一瞬にして、悔い改めに変わることは誰の人生にもあります。影が暗く濃いほど、そこから驚くべき神様のご計画、あなたへのメッセージを聞き取り、天来の恵みを味わうことができるのです。
 悔い改めの心こそ、あなたの心を新しくします。
 
「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」(黙示録3・19)



 生きることの指針(11月11日)


   いつもにっこり笑うこと。
   人の身になって思うこと。
   自分の醜さを恥じないこと。
 『泥かぶら』に出てくるこの言葉は、人生のどのような状況にあっても、生きることの力強い指針です。
    いつもにっこり笑うこと。
 物事がうまくいったからほほえむのではなく、ほほえむから物事がうまくいきます。4歳児は1日に300回笑いますが、大人になると、平均7回しか笑わない、という統計があります。
 最初は作り笑いからでもいいですから、大いに笑いましょう。医学的にも、笑うことが生きる力になると証明されているほどですから。
 人の身になって思うこと。
 不安になったり、人間関係でうまくいかないのは、いつも自分の方から相手を見るからです。人の身になって思う、これをいつも心して習慣化することです。
自分の醜さを恥じないこと。
 誰にも自分の欠点や隠したいところがあるものです。しかし、イエス様によって罪ゆるされた神の子であることをしっかり思い、謙遜に大胆に、この三行を繰り返しつつ、歩みを深めてまいりましょう。




 助けは主から来る(11月18日)

 日本は国土の6割が山地です。中でも富士山は日本最高峰で、その優美な風貌は葛飾北斎の『富嶽三十六景』をはじめとして日本画のモチーフとして用いられ、国内外で日本の象徴として広く知られています。
 同じように、聖書の舞台となっているパレスチナ地方も山岳地帯で囲まれていて、多くの山が登場します。
 旧約聖書を代表するモーセは、奴隷であったイスラエルの民をエジプトから導き出しました。そして、神の山ホレブ(シナイ山)で40日40夜、主と共に過ごし、神から十戒を授かりました。山は神によって造られた確固たるもので、天地創造者の力を指し示しています。
 神と山との関係は密接で、「シオンの山エルサレム」は地上における神の臨在の場でした。
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこ から来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた 主から来る。」(詩篇121・1~2)
 イスラエルの人々が都に上る旅の道中で、この詩篇を歌ったと言われています。私たちも人生の旅路を歩んで行く道中にあって、山を造られた創造主なる神に目を向け続けることが最も大切であることを教えています。
 今週も、創造主に目を向け、すべての助けの源である主に期待しつつ歩んでまいりましょう。




 神の言葉を蓄える(11月25日)

 誰もが、最期まで食べる幸せを願っています。高齢や病気などで飲み込む力などが衰えると、適切な支援もないまま、食べる喜びを奪われている人が少なくありません。しかし、適切な指導を受けて自分で飲み込み、食物をもう一度口にしながら、喜びをかみしめておられる方も多くおられます。
 同じように、神の言葉は私たちの心と霊を育てる栄養になります。み言葉に聞くこと、読むこと、そして咀嚼(そしゃく)することで、人生の困難に対しての免疫力とバランスの取れた健全な生活を送ることができます。
 さらに、神の言葉を蓄えることによって、私たちの内側が平安に満たされ、喜びが湧いてきて、何があっても大丈夫と思えるほどに霊的成長ができるからです。
 それはいつからでも、どこからでも始めることができ、続けることによって効果を実感できるのです。
 神の言葉は永遠に変わることはありません。日々、変わらない神の愛の言葉を生活の中でしっかりと受け取り、生きる糧としてまいりましょう。
「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」(エレミヤ15・16)