教会の歴史

の教会はー
 米沢興譲教会(よねざわこうじょうきょうかい)といいます。

 キリスト教会はカトリック教会、正教会、聖公会などがありますが、この教会は今から約500年前、ルターの宗教改革によって生まれたプロテスタント教会に属しています。また18世紀イギリスで始まったジョン・ウェスレーのメソジスト運動、さらにはそこから生まれたホーリネス運動が日本にも伝搬し、その流れの中で、今から約100年ほど前にこの教会は米沢の小さな家庭集会として産声をあげました。

 

☆この教会の特色☆

 ”ホーリネス(Holiness)”とは「きよめ派」とも呼ばれ、”日々、生きた信仰により、きよめられること”を強調します。また、ただ頭だけの信仰では無く、練り鍛えられた信仰によって、生活の中でキリストを証しすることを特色としています。
 米沢興譲教会は、1925年に一人の婦人の信仰から始まり、2025年に100周年を迎えます。この前身は「米沢ホーリネス教会」といい、南雲家の家庭集会(米沢市泉町)に集った信仰深いご婦人たちがその礎となりました。多くの人々が次々と救われる中、牧師も与えられ、米沢ホーリネス教会、さらには米沢興譲教会に名称を変えました。「興譲」は、米沢の人々になじみ深い言葉だったからです。

 

☆興譲とは☆

「興譲」の由来は、中国の書物『大学』に遡ります。そこにはリーダーとなるべき者の心構えが記してあり、「国のリーダーになる者は、民に対して横暴に振る舞うのでは無く、むしろ民に対してへりくだらなければならない。」という教えがあります。この”へりくだり”を漢字一文字で表すと「譲」になります。「興譲」とは、へりくだりの心を興す(おこす)ということです。江戸時代、名君であった上杉鷹山は、新しい米沢藩をリードする若いリーダーたちを養成しようと思っていました。そこで創ったのが興譲館です。「リーダーは民に仕え、へりくだって歩むこと」、そのような思いを込めて米沢藩の藩校「興譲館」が開かれました。
 そしてこの「興譲」という言葉には、聖書の教えが含まれているため、私たちの教会にも使われたのです。

「そこで、イエスはすわって12弟子を呼び、そして言われた、
『だれでも一番先になろうと思うならば、一番あとになり、みんなに仕える者とならねばならない。』」
(マルコによる福音書 第9章35節)

 イエス・キリストは、まさに、仕えられるためではなく仕えるためにこの世に来られました。この米沢にあって実体ある興譲スピリットを輝かしていきたい、そのような信仰の先輩たちの熱い思いが教会の名前からも伝わってきます。

☆迫害を超えて☆

 第二次世界大戦中はキリスト教は敵性宗教とみなされ、憲兵などの国家権力の下で監視されましたが、ホーリネスの教会はそれにも屈しませんでした。「キリストのみが神、天皇は神ではない」という姿勢が危険思想とみなされ、1942年6月、いわゆるホーリネス弾圧事件が起こり、解散を命じられたり、牧師が投獄され、殉教者が出た教会もあります。米沢興譲教会も解散を命じられ、教会員は特別高等警察に常に監視され、迫害を受けました。にもかかわらず料亭の一室を借り、信仰を守り、集会をやめることをせず、戦争中の迫害を乗り越えた歴史を持っています。

☆会堂建築☆

 戦後、迫害を乗り切ったご婦人方と新しく赴任した牧師夫婦は、熱い伝道活動を続け、教会はさらに発展しました。そこで、泉町の家庭集会から、米沢市中央に土地を求め、会堂を立てるビジョンが与えられました。しかし、建築資金が足りず、当時の牧師は米沢市内全戸を回り托鉢をしました。その苦労は並大抵のものではありませんでしたが、その浄財によって、念願の教会堂が米沢市中央2丁目に建てられました。

 

☆現在の教会☆

 その後、アメリカから戻られた牧師夫妻と共に熱い伝道が繰り広げられました。1981年、同じ土地に新しい会堂が与えられました。さらに多くの人が集うようになり、大きな教会が必要となり、1995年、中央3丁目に現在の会堂を献堂することができました。
 現在の会堂は会堂建設では有名な一粒社ヴォーリズ建築事務所の設計です。教会の高い塔にある鐘はオランダ製で、会堂内のピアノはアメリカ製のスタインウェイを常備しています。ベン・タケウチ氏によるステンド・グラスも入り、米沢を代表する建築物となり、2018年、米沢市の第20回米沢景鑑賞「残したい建物部門」を受賞しました。

 

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