1月
1月7日 「祈りに導かれる時」
イスラエルの民が捕囚されたバビロンから解放され、帰還する際、護衛を断ったのが学者エズラでした。彼らは相当の金銀青銅を携えてエルサレムまでの約4ヶ月の旅に出なければなりません。しかし、エズラは普段からアルタシャスタ王に「われわれの神の手は、神を求めるすべての者の上にやさしく下り、その威力と怒りとはすべて神を捨てる者の上に下る」(エズラ記8:22)と言っていたので、その信仰を守り通そうとしたのです。
これは我力の信仰で、まだ自分自身が主導権を握っている段階の信仰です。やがてやせ我慢にも限界が来ます。「本当に賊に襲われたらどうしよう?」「自分が倒れたらこの人たちはどうなるのか?」。我力の信仰の持ち主には、必ずこのような思いが次々と湧いてきます。驚いてはいけません。それが神に導かれている人の順調な姿です。不安と心配で押しつぶされそうになった挙句、搾り出すようにして出るのが「祈り」だからです。
エズラは断食をし、神の前に身を低くせざるを得ませんでした。神はそのようにして私たちを祈りへと導かれます。
不安と心配は神様からの招待状です。その招待状には「祈りなさい」と書かれてあるのです。不安と心配の中で、安心して祈りましょう。神に求める中で、私たちの想像を遥かに超えたみわざを神は見させて下さいます。
1月14日「災いの対処法(1)」
災いは突然やって来るものです。私たちはどう対処すべきでしょうか。まず第1に、災いが来てもいいように備えておくことです。
人に災いをもたらそうとするサタンは、神に対してこんな愚痴をこぼしています。「あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか」(ヨブ記1:10)。神様が垣根を設けていたので、サタンはヨブに手を出せませんでした。聖書のみ言葉が信仰の防波堤です。
「主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない」(詩篇91:4-5)
親鳥が雛を羽で覆い守るように、神は私たちを覆うので、その下にいる人間は災いを避けることが出来ます。また、大盾で身を隠し、敵の火の矢を防ぐことも出来ます。夜の恐ろしい物、昼に飛んでくる矢とは、不意に襲ってくる不安や心配です。私たちが神に信頼を寄せる時、これらの災いから守られます。私たちがすべきことは、み言葉を宣言し、神の守りを告白することです。これがサタンを容易には寄せつけない垣根作りとなるのです。
今週もみ言葉に信頼を置き、み言葉の宣言に励んでまいりましょう。
1月21日「災いの対処法(2)」
前回、み言葉の宣言が災いを防ぐ垣根だと申し上げましたが、神様ご自身がその垣根を取り払う時があると、聖書は語っています。
サタンが神に訴え出た後、神はサタンにこう言います。「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」(ヨブ記 1:12)。ヨブが張り巡らし、また神ご自身が備えられたはずの垣根でしたが、一つ、二つと神は外され、それに乗じてサタンはヨブに次々と災いをもたらしました。あえて神様は私たちに災いが来るのを許可されることがあります。しかし、その背後には必ず神の意図があるのです。
大阪で英語講師をしていたJ.V.マーチン宣教師は、たまたま東京で関東大震災に遭遇しました。マーチンは被災者が身を寄せあう明治学院のグラウンドで、夕闇に浮かぶ十字架を発見しました。それはどうやらの中で光るろうそくの光だったようです。そして、大災害のただ中にもキリストが共におられるという感動から生まれたのが「とおきくにや」(聖歌397番)です。
人は皆それぞれ、納得できるまでには様々な経路を通り、苦しみながら自分の答えを出し、その答えがそれ以降の人生を支えていきます。神の防波堤が崩れたように思う時は、あなたにしか与えられていない神の答を見出す時です。さらなる信仰の深みへと邁進して行きましょう。
1月28日「奇跡を信じる」
相対性理論を唱えたアインシュタインは、同じ物理学の友人と夜道を散歩していた時、突然、「君は、君が見上げているときだけ月が存在していると本当に信じるのか?」と尋ねました。彼は物理学の量子論に反対の立場を取っていたからです。しかし、電子等の大きさのミクロの世界では、人間が観測した時は存在は確立しますが、観測していない時はその存在が有るか無いかわかりません。それが実験で証明され、2022年に3人の科学者がノーベル物理学賞受賞となりました。
アインシュタインさえも届かない領域があり、さらにそのまた先の大きな理論がこの世界にはあるのです。イエス・キリストの奇跡も、説明はできなくても、実際にあったとして信じる理由がそこにあります。
聖書は科学的真理を伝える書ではありませんので、5つのパンと2ひきの魚がどのような物理理論で5千人の人々が満腹するまで増えたのかは説明しません。私たちが知り得るのは、イエス様が「天を仰いでそれを祝福して」ということです。信じる者に与えようとされる愛の神がいらっしゃるという信仰があり、その神の祝福を素直にいただこうとする時、5千人の人々が満たされたのです。
神は人間の理解を遥か超えたところにおられます。救い主を送り、私たちの罪を赦して祝福を与えようとする御方がいらっしゃるのだと、ただ信じる今日としてまいりましょう。
2月
2月4日「最高の霊的体験」
米沢市で「星野富弘 花の詩画展」が開催され、延べ四千人近くの方々が来て下さいました。星野さんは落下事故で首から下の身体が動かなくなり、人生に絶望した後、キリストの福音を信じてクリスチャンになられました。
では、神を信じたので元のように動けるようになったでしょうか?いいえ、体はそのままです。しかし、キリストの福音に生きている喜びと感動を、その絵と詩に表し、全く動けない人が人々の心を動かし、四千人の足を運ばせるという出来事が起きたのです。
キリストが来られたのは身体の癒しが目的ではなく、神と人との関係を正しくするためであり、それが神の側からもたらされたという福音を伝えるためでした。つまり、霊・肉・魂を含めたトータルな救いが目的です。
もちろん、イエス様は愛ゆえに人々を癒されましたから、神に癒しを求めていっこうに差し支えありません。また、癒しを体験し、そこから神を信じる道を歩まれることもあることでしょう。しかし、は霊的体験の中で言えば小さい方なのです。人間の世界も天上の世界も全てを知り尽くし、しかも支配しておられるイエス・キリストの言葉を聞き、それに従って生きること。それが霊的体験の最上のものなのです。
今週もその最高の霊的体験を積み重ねて参りましょう。
2月11日「肯定語を話す」
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。」 (マタイ17:20)
ロサンゼルスで日系人の教会の集まりがありました。皆日本人の顔をしていますが、日本から来た人とアメリカで生まれ育った人とは言葉の点で違います。日本語と英語の両方使えるバイリンガルではあっても、アメリカ育ちの人は英語の方が得意ですから、「本当?まさか!」と言うよりも、“Really? You're kidding!” と言ったほうが楽なのです。20~30分もすれば、会場は日本語グループと英語グループの2つに分かれていました。
この例でわかるように、否定語を話す人たちは言葉が通じ合う否定的人を見つけ出し、「やっぱりダメだよね」というコミュニケーションをして理解し合うのです。一方、肯定語を話す人たちは同じ肯定的人と話が合います。「こうするとうまくいく」「やれるところまでやってみましょう」。
もしあなたが前向きな人を見つけたいと思ったら、あなた自身が神の命のメッセージに触れ、そこから生まれる前向き肯定語を使い続けること。これこそが一番の秘訣です。やがて同じ言葉を使う肯定的人と出会い、その良きモデルを通してあなたの人生が変わっていきます。
大丈夫、救われるよ(2月18日)
全国的に活躍しておられる牧師先生をお招きして、中高生のための特別伝道集会を開いた時のことです。
講師の先生は聖書の話から始めず、自分がどんなに嘘つきであったかを話し出しました。その話の面白いこと!会場は爆笑に包まれました。
やがて、唐突にその先生が、「僕と同じように嘘をついたり、お父さんお母さんをだましたりしたことのある人、この中にいるだろう。手を上げてごらん」と言うではありませんか。一人、二人、チラホラ手を上げる中高生がいます。「ほら、やっぱりいる。他にもいるだろう、僕と同じ人が?」と、犯罪者を取り締まるような態度ではなく、楽しい雰囲気で言うので、そこに集まったほぼ全員が手を上げました。「なーんだ、やっぱりそうか!大丈夫、みんなイエス様を信じれば罪が赦されて僕と同じように救われるよ」と、そこから本格的にキリストの福音の伝道説教となり、その集会で多くの中高生がイエス様を受け入れる決心をしました。
あなたの過去は過去としてそこに残っています。しかし、十字架の赦しを信じて生きるとき、神はそれを神の器として用いて下さり、そのことがあったゆえに神の祝福がこの世に広がり、あなた自身もその祝福にあずかる人生が用意されているのです。
神のゆるしを受け取る今週として参りましょう。