2004年5月の霊想

  前始末を大切に (5月2日)

   「写真を撮る前に気をつけることは何ですか」。プロ写真家、土門拳氏が尋ねられました。土門氏は即座に、「レンズのキャップをはずすことです」と答えられました。プロの口から当たり前のことが言われた時、人々はその意外性に驚くのではなく、むしろ、感動したと言います。
 仕事などでも、「後始末をきちんと」とよく言われます。しかし、後の始末だけではなく、前始末、段取り八分仕事二分で事をなす人は、準備に時間や思いやエネルギーを費やし、豊かな結果を得るようです。
 「今日は何もしないで終わった」という一日を送ることは、最終的に、人生の終わりに同じ言葉を言うことになりかねません。そこで、豊かな人生を生きるために心したいことは、前始末。前始末とは、まず、

 「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46・10)

とあるように、ディボーション、すなわち、神様との交わりの時を持つことです。聖書を読み、祈り、瞑想する時をしっかりお持ちになる、これに勝る確かな人生の土台はありません。
 今週も、心して歩んでまいりましょう。

  人生の三原色  (5月9日)

 絵画が三原色から成り立つように、賢さ、強さ、豊かさの三つが、人生に無限の可能性をもたらします。
  『賢さ』
 だれもが賢く生きることができます。賢さとは、いつでも、どこからでも、誰の中にも、宝を見出すことです。そのコツは宝ありと思うこと。無いと思う人はない理由を見いだしますが、あると思う人はある所を見いだし、宝の方があなたを迎えに来ます。宝は、自分を信頼し活用してくれる人を好むのです。
  『強さ』
 多くの場合、他者や状況に勝つことを「強さ」と考えます。しかし、本当に強い人とは、自分自身に勝つ、すなわち、考えを否定から肯定に、また、感情をマイナスからプラスに、自分を縛る古い習慣から新しい習慣へと変えてゆく、「克つ」人です。心して、良い習慣を身に付けたいものです。
  『豊かさ』
 真の豊かさは、今持っているもので心から満足できる人です。今を感謝できない人は、どのような所に行っても不平不満でいっぱいです。

    「わが恩恵なぢに足れリ」 (Ⅱコリント12・9)

真の豊かさを生きたいものです。

  確かな拠り所 (5月16日)

 旧約時代の人々―アブラハム、モーセ、ダビデ―は、直接、神と出会い、交わりました。新約聖書においては、すべての人が、イエス・キリストを通して神との出会いが可能です。
 自分自身をつぶさに見る時、ひがみや卑屈、劣等感等は、人々の言葉、時代の価値観、自分の理想等と自分の現実を比べて生まれます。このように、真理なる神を基準とするのではなく、偽りによって生きていることを偶像礼拝と言います。
 偶像礼拝は罪の一端ですが、自分もこの罪人である事を知り、確かな神に立ち返るためには、どうしても、確かな救い主、イエス・キリストが必要です。キリストは罪のない方でしたが、罪人のために命を捨ててくださいました。
 クリスチャンは、「この方以外に救いはない」と、イエス・キリストを通して神に直結するという大土台を、日々、明確に、強固にしていくことです。これが、人生の唯一の拠り所です。
 私たちからキリストを取ったら何も残りません。なぜなら、イエス・キリストがすべてですから。

 「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」
                               (ヨハネ14・6)

  素直に生きるために  (5月23日)

 貧しくても、時に健康を害することがあっても、人生を充実させることができます。そのコツは「素直に生きること」です。故・松下幸之助氏をはじめ、多くの人生の達人が、豊かな人生の鍵として「素直さ」をあげられます。

    ひたむき
 素直とは、幼な子のような純真な気持ちを言います。あれもこれも右に左にと思いを分散させると、疑いが大きくなり決断が鈍るものです。よく考え、また、良き手本を見いだしたならば、ひたむきに歩くことです。

    全力投球
 素直さの特徴は、ひたむきさと共に、全力投球することです。ジャングルに棲む野生のライオンは、ウサギのような小さな動物を追いかける時も、全力疾走すると言います。しかし私たちは、つい、いい加減になる。素直さを欠き、全力投球を忘れてしまう時があるものです。

    継 続
  そして素直さの究極は、愚直なほどまでに一つのことに対してやり抜く、継続することです。「継続は力」と言うように、一つのことに専心する時、やがて、一滴一滴の雨だれが石に穴を開けていくような人生を生きることができるのです。

  充実人生発見術  (5月30日)

 価値観が多様化している現代、充実した人生をどのようにして見つけることができるのでしょう。
 一つは勉強好き、すなわち、学ぶことをいとわないことです。これは高学歴を指すのではありません。誰からも、どこででも学ぼうとする姿勢です。国民的文学者と言われた吉川英治氏は、「自分以外は皆師」と言いました。相手が年下であろうと、どのような立場の方であろうと、誰からも学ぶ姿勢は、有名な大学に入ると同じようにより多くのことを学ぶ機会となります。
 第二はどのような状況からでも学ぶことです。「このような大変な状況からは、何も得るものはない」と思う人は、困難や試練から愚痴だけを刈り取ることとなり、そこにある宝を見いだし、喜びを刈り取ることはありません。チャンスや幸せは、一見、不幸せと見える包装紙に包まれていることがよくあるのです。学ぶことが何もないのではなく、どんな状況でも、工夫するとそこに学ぶべき果実を見いだすのではないでしょうか。
 誰が、最初に「はしご」を考えたのでしょう。はしごを用いると、オリンピック選手でもはしごなしでは達成できないような高い所まで、小学生でも登っていくことができます。勉強好きな人は、その人ならではの工夫を見いだし、宝を自らのものにしてゆくのです。

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