光で心をいっぱいに(1月2日)バス停での老夫婦の会話です。 イライラした夫が、「来るはずのバスが10分も遅れている。時間通り来ないなら、こんな時刻表なんかいらない」と声を荒げました。すると妻は、「時刻表がないと、バスがどのくらい遅れているかわからないでしょう」と返しました。 あなたは、この会話から何を得られますか? どのような状況でも、否定的に取れば果てしなくそう見えてしまうものです。また、その逆も可能です。試練、困難が多い時こそ、暗い影の反対側には明るい光があることを、しっかり心に留めましょう。やみは光を見いだすための案内人です。毎日の生活で光を見つけて生きること、それが人生の目的です。 イエス様は「わたしは世の光」(ヨハネ8・12)と言われました。光であるイエス様を絶えず思い、心を光なるイエス様でいっぱいになさると、あなたから光の子どもとしての輝きが放たれます。神と共に生きるとは、そのように生きることを言います。 「今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい」 (エペソ5:8) |
ブレない視点(1月9日)「一寸先は闇」と言います。まさに現代は、明日何が起こるかわからない時代です。どの道を歩いていけば、平安な良きところに到達できるのか……。さらに、先人が開いた道は歩き尽くされ、あなた自らが歩いて開かなければならない時代です。 かつてアマゾンを探検した一隊が、現地の人に先導され、ジャングルの中を何日も何日も歩きました。探検家が「いったい、どこに道があるのか」と尋ねると、ガイドは、「私が歩いたところが道になります。安心してついてきてください」と答えました。 あなたは人生のガイドを誰に頼んでいますか。一番確かなガイドをご紹介します。その方は、あなたを造り、あなたを罪から解放し、誰が見捨てても、あなたを決して見捨てず、あなたといつも共におられるイエス・キリストです。この方こそ、唯一無二のガイドです。 「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル12:2)の「イエスを仰ぎ見つつ」を新改訳では「イエスから目を離さないでいなさい」と訳しています。しっかりと、ひと時もキリストから目を離さない生き方、ブレないその視点が、豊かな結実に導きます。 |
第三の道(1月16日)仏教学者である安田理深氏の家が、隣家からのもらい火で全焼し、高価な専門蔵書や研究論文など、すべてが灰になりました。しかし、安田氏は隣人を恨むことをせず、宗教者として、「この時こそ、自分の宗教的本体が他に示される時である」と決意しました。 彼は、「「仏教を学び、仏教に生きる者が、隣家の人に腹を立てるのはおかしい」と思い、「焼かれた」のではなく、「自分が焼いた」と考えようとしました。しかし、「焼いた」と自分で背負うことは至難の業です。なぜなら、それは事実に反することだからです。 そこで、「焼かれた」のでも「焼いた」のでもなく、「焼けた」と彼は結論づけました。そのままを受け入れる、という仏教的な平安です。 クリスチャンの場合、人間が達し得るこの境地のさらに上に、神の恵みが注がれます。「焼けた」と手放したものは、実は自分のものではなく、創造主なる神の所有であったと知る時です。 「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」 (ヨブ記 第1章21節) 自分と相手との関係の中で、「焼かれた」のでも「焼いた」のでもなく、人格的神の存在があり、「すべて主にお返しした」と受け取る第三の道の祝福があるのです。 今週もこの神と共に歩んでまいりましょう。 |
小さなうちにしておくこと(1月23日)欲望には二つあります。 一つは、神様が与えてくださった、食欲、睡眠欲など、生きるために必要な基本的欲求です。もう一つは、サタンがもたらす不必要な欲です。 この二つを見分けるには、どうしたらよいのでしょうか。神様が備えてくださった欲は、ある程度満たされると満足し、平安になります。それに対して、サタンからの欲は、所有欲、名誉欲など、持てば持つほどさらに欲が増します。「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」(ヤコブ1・15) サタンからの欲に勝つためには、み言葉に立ち、絶えず祈り、初期のうちに聖霊様によって誘惑に勝つことです。たとえば、食欲は、どちらからであるかを見分けにくいですが、ここからの欲はサタンとわかったら、「やせてやる!!コレ食べてからやせてやる!!」のサラリーマン川柳のように流されるのではなく、今、ここで、小さな誘惑に祈りの力によって勝つ、良き習慣を身につけることです。 習慣を身に付けるためには、①強い意識、②み言葉に立ち、祈りの生活を規則的に行うこと、③互いに励まし合う仲間を持つこと、です。 これがあなたの人生を豊かにします。 |
決して欠かさないこと(1月30日)「お年を召され方に大切なのは、キョウヨウとキョウイクです。すなわち、『今日用事がある』『今日行くところがある』ことですよ」と、古びたダジャレを語ったところ、教会員のAさんが、次のように教えてくださいました。 「田中先生、教養とは、単なる知識だけにとどまらず、生活の中で学んだことが身についていることです。それをひけらかすこともなく、自ずとその人からにじみ出てくるもので、言葉や振る舞いに深みある品格や謙虚さを感じさせるもの。それを教養と言うのです」。 語るAさんご自身から、まさに教養、品格が豊かに放たれているのが、何ともうらやましい限りです。 Aさんがそこにいらっしゃるだけで、知識や言葉ではなく、そのように豊かな香りが放たれるのはなぜだろうか、と観察しましたが、わかりません。そこで、ご本人に尋ねてみました。Aさんは「礼拝、祈祷会を欠かさず守っていること、さらに、毎日の1時間のディボーションから与えられる恵みでしょう」と語られました。実体のある人は、努力が苦ではなく、むしろ喜びであり、信仰生活が日常となっていることを教えられました。 今週も、み言葉と祈りの生活を送り、さらに豊かな実を結びましょう。 |
2022年1月の霊想