2022年4月の霊想

クシャクシャの20ドル(4月3日)

講演家が、本題の前に聴衆に向かって20ドル札を掲げて、こう語り出しました。「このお札が欲しい人はいらっしゃいませんか」。すると、何人かが手を上げましたが、講師は真っ先に手を挙げた人に20ドルを手渡すことにしました。

その時、講師はその20ドル札を丸めてクシャクシャにし、さらには足で踏みつけ、挙げ句の果てに、蹴っ飛ばしてしまいました。そして拾い上げてひと言。「私の今日の話は、これがすべてです。このお金をどのように扱い、または扱われたかには関係なく、このお札は20ドル札で価値は変わりません。人生で誤解され、乱暴に扱われたり、幼少期に深い心の痛手を負った方もおられるでしょう。しかし、神の作品としてのあなたの価値は少しも変わらないのです」

その後、講師は1時間ほど熱く語りましたが、その内容よりも、20ドル札を丸めて踏みつけた光景の方が、聴衆の脳裏に鮮明に焼き付けられました。そして、20ドル札に各々の人生を重ね合わせ、どのように扱われたとしても、自分の価値は少しも変わらないことを、しっかりと心に刻んだそうです。

さて、あなたは……?

主は振り向いて(4月10日)

ヨーロッパの古い教会の屋根には、十字架ではなく鶏があります。紀元9世紀、ローマ教皇が「鶏」を設置するようにとの命令を下したのが始まりです。ペテロの経験から多くを学ぶためです。

最後の晩餐の席、イエスはペテロに「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われました。ペテロは、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と反論します。彼には従い通すだけの自信がありました。その舌の根も乾かないうちに、三度も主を知らないと否定してしまったペテロ。

そのペテロの姿を、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのカメラはしっかりと捉えています。4つを見比べてみると、ペテロが立ったり座ったり、門の外でたじろぎ、勇気を奮って庭の真ん中に入ったかと思うと、すぐ逃げ出せるように門のところまで出て行きます。彼のソワソワ、ドキドキの挙動不審ぶりが映し出されています。

三度主を否定した時、夜明けに鶏が鳴きました。「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)とあります。そのまなざしは、ペテロを冷たく突き放し、責め、裁くのではなく、弱さも失敗も挫折もすべてを包み込み、赦し、生かし用いると語りかけるものでした。 (『苦しむときそこにある助け』横山幹雄著より)

平和の起点(4月17日)

『歴史の研究』全25巻を著したイギリスの歴史学者、アーノルド・トインビーは、「一つの国が滅びるのは戦争によってではない。天変地異でもなければ、経済的な破綻によってでもない。一人ひとりの心の平安が失われた時、崩壊が始まる」と言いました。一人ひとりの心の平安こそが平和への鍵です。

平安の最大の敵は「死」です。人は死を恐れます。なぜなら死ですべてが終わると考えるからです。しかし、クリスチャンの大きな喜びは、「人生の終わりは死ではなく、天国である」という神様の明確な約束です。

イエス・キリストは十字架にかかり、私たちの罪の借金を支払ってくださったのみならず、永遠の命を私たちに備えてくださいました。父なる神によって三日目によみがえらされ、うち震える弟子たちに現れて勇気を与え、最大の迫害者パウロにも現れ、彼の人生を180度変えました。

永遠の命にある最大の恵みは「平安」です。あなたご自身も聖霊様によって信仰告白し、永遠の命の確信を与えられ、平安を生きておられます。全能の神への信頼、復活信仰からくる平安こそ、あなたの人生、そして全世界の平和の起点となります。

すべては一人から始まります。平安を得たあなたがその「一人」となり、世界に平和をもたらす者となることを、このイースターの朝に覚えてまいりましょう。

桜のように(4月24日)

「桜は好きでない」という方は、日本人では稀ではないでしょうか。「なぜ桜が好きなのか」を尋ねると、一人びとりがご自身の生き方と重ねながら語られ、感慨深いものです。

Aさんは「何と言っても、散り際の見事さ。自分の人生もそうありたい」とおっしゃいます。Bさんは、「多くの樹木が、最初に葉が出て花が咲くのに、桜は花が先というところが興味深い」と語られます。

ある人が、桜についてこのように教えてくださいました。「日本各地にあり、最も人気のあるソメイヨシノは、冬が厳しいほど、春の訪れに敏感に反応する。札幌と奄美大島、それぞれの地で時を過ごした枝を、同じ温度の中に置くと、北国育ちの方がいち早く咲く。夏にできたつぼみは、秋になると固い芽に覆われ、気温が下がると、その中で特定の物資が分解される」。

桜のように、人生の厳しさ、困難・試練のただ中にあるからこそ、主の最善を待ち望み、主のみわざの素晴らしさを最初に味わうことができるのは、何とすばらしいことでしょう。

桜前線が北上中。すべてが主の御手の中にあり、すべてがみ言葉の確かさをあらわしています。目にするもの、聞くもの、触れるものを通して味わってまいりましょう。

-

© 2024 Yonezawa Kojo Church