2024年9月の霊想

原点に帰る(9月1日)

「主は恵み深く、なやみの日の要害である。彼はご自分を避け所とする者を知っておられる。」(ナホム1:7)

 

ナホム書のサプライズはその名前です。ナホムという名前は「慰め」を意味しますが、ナホム書のメッセージはそれとは反対に、敵国アッスリヤに対する裁きと滅びの預言です。そこには深い神の御旨があります。

ナホム書はヨナ書と反対で、ヨナの時代には、ヨナの宣教によってニネベの人々は悔い改め、それを見た神は彼らを救われました。しかし、その後の時代のナホムのメッセージを、当時のニネベの人々は拒否しました。アッスリヤは国の最盛期を迎え、向かうところ敵無しの時代だったからです。自分の力を頼みにし、神の力も愛の御手も目に入らなかったアッスリヤは厳格な裁きに遭ったのです。

大事なことは、今の自分は自分の力でそうなったのではなく、神の力でさせていただいているのだ、という意識を持っていることです。すなわち、栄光を常に神にお返しし、自分はちりから造られた土の器に過ぎないことを肝に銘じておくことです。この原点に繰り返し戻る時、神のメッセージを聞き逃すことはありません。

神が造られた土の器である自分に戻り、原点から今日を歩み出しましょう。

御言葉の種(9月8日)

花や野菜の種袋には「発芽率○○%」と記載されています。蒔いた種が全部芽を出すわけではありません、という種苗メーカーからの断り書きです。さて、御言葉の種の発芽率は神のみがご存知です。私たちの役目は蒔くことです。

御言葉が芽を出すには相当の努力が必要とお感じになるかも知れませんが、イエス様のたとえ話ではこうなっています。「夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」(マルコ4:27)。「夜昼、寝起きしている」とは普通の生活を送っているということです。その間に、種、つまり御言葉自身に命があるので、努力せねばという思いの有る無しとは関係なく、「芽を出して育って行く」というのです。

育てるのは神。蒔くのは人間です。人の機嫌を取ったり、顔色をうかがったりして、変形させた種を蒔いてはいけません。また、自分で蒔いて自分で収穫するのだと力んでもいけません。伝道する時には、純粋な御言葉の種をまくことに意識を集中するのです。そして、どのくらい蒔いたかなど忘れるほど多く蒔くこと。この人生の先に喜びと収穫が待っています。

今週も御言葉の種をまき、伝道に励んで参りましょう。

ディボーション継続の秘訣(9月15日)

卓球の試合を見ていると、きれいなフォームで決まる力強いスマッシュばかりではありません。大半は体勢を崩されて返す「つなぎ」です。しかし、強打して決めてやろうという思いを抑え、辛抱してつないでいると、やがてフワッと浮いたチャンスボールがやってきます。かっこ悪い打ち方をしながら、しのぐことを覚えた人が現実の勝利者となります。

ディボーションの継続も同じです。いつも完全なやり方でやろうとすると続きません。聖書を熟読できる時もあり、一行読むだけでもやっとの時があります。気持ちがダウンしている時は百点満点を目指すのをやめ、自分の答案を書いてさっさと提出するのです。そして、「あきらめないで形だけでも出すことができた」と自分に言い聞かせ、自分を励まし、明日の活力を確保する方向へと自分を向かわせましょう。ディボーションが身についた人には、間にそのような「つなぎ」の個所がいくつもあるものです。

不十分でもやり続けて良い理由は、イエス・キリストが十字架で私たちの罪のために死に、私たちの全てを受け入れてくださったからです。キリストが受け入れてくださったから、私もこの不十分な自分を受け入れ、不十分な私として生きていく。これが継続していくための力となります。

結果は神にゆだね、信仰の歩みを続けて参りましょう。

本当に恐れるべき方(9月22日)

ペルシャ王アルタシャスタの下での恵まれた生活を捨て、エルサレムに帰還したネヘミヤらは、荒廃した城壁再建のために勤しみ働きました。ところが、神の御心を進めようとすると同時に阻止する力も働きます。ネヘミヤ記第4章では、ホロニ人サンバラテらが工事を中止させようとしました。すると、外部からの圧力に影響され、同胞のイスラエル人から不安の声が上がりました。外からの圧力、内側の混乱。このような状況にネヘミヤはどのように対処したのでしょう。

彼は、「あなたがたは彼らを恐れてはならない」(ネヘミヤ記4:14)と民を励ましました。そして、「大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、むすこ、娘、妻および家のために戦いなさい」と続け、本当に恐れるべき存在は神なのだということを強調しました。

新約聖書でイエス様は、「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(マタイ10:28)と教えられました。人を恐れることに「さようなら」と言い、「本当に恐れるべき方は誰なのか」と考え始めると、真に歩むべき道が見え出し、人生が開けていきます。本当に恐れるべき存在は神以外ありません。その神に信頼を置いて歩む今週として参りましょう。

正しい評価(9月29日)

「能ある鷹は爪を隠す」と「弱い犬ほどよく吠える」という2つのことわざは、人を正しく評価するには、外見でなく、その人の行為を客観的に見て判断することが必要だと教えます。ところが、イエス様の郷里ナザレの人たちは、先入観に基づいて判断していました。

彼らは「このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか」(マルコ6:2)と不思議がりました。イエス様が公生涯に入ってからなされた数々の奇跡を伝え聞いたのです。しかし、人々は村中の血縁関係を知り尽くしていたので、「我々と変わらない普通の人間ではないか」という思い込みが消えませんでした。

イエス・キリストは100%神であると同時に100%人間です。聖書はそれをこう語っています。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(ピリピ2:6-7)。

人間の姿に隠された神の子の神性を見抜くためには、自分の中の先入観を一旦脇に置き、心を中立の状態にしなければなりません。虚心坦懐にイエスという人物の言葉と行いを調べてみようとすることが、正しいイエス・キリストの理解へと到達するやり方です。

まず、聖書の言葉を聞くこと。そこから始める今週として参りましょう。

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