2025年1月の霊想

奇跡の意味(1月5日)

私たちの人生で起こる思いもかけない出来事は、神の存在を通して見るときに、正しくその意味をつかむことができます。

ある日の礼拝でMさんが受洗後初めて証しをなさいました。その礼拝に出席していたSさんとTさんはビックリ。なぜなら、30年前、3人は同じアパートの棟に住んでいたからです。礼拝後、「私は3階に住んでいました」「あら、私は4階です」と昔話に花を咲かせておられる情景はとても微笑ましいものでした。

最初にクリスチャンになったのはSさんで、その当時、せっせと同じ棟の人たちに教会のチラシを配っていました。しかし何の効果も見られず、やがて各々の都合で皆引っ越しをし、離ればなれになっていたのです。Sさんの労苦は無に帰した形となっていましたが、30年後、その棟の16の家族のうち、3家族から神を信じる者が出て、しかもそれぞれ遠隔地から何も知らずに集まった礼拝で顔を合わせるとは!この神の奇跡にSさんはしみじみ「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである」(伝道の書11:1)の御言葉の約束を味わわれました。

神は、あなたの人生に奇跡を起こされます。聖書を通して、その奇跡の意味を正しく理解し、神の御旨を知っていく一週間にしていきましょう。

神の美味(1月12日)

稀代の美食家、北大路(きたおおじ)魯山人(ろさんじん)は、「美味い湯豆腐を食べようとするには、なんといっても○○のいいのを選ぶことが一番大切であ
る」と書いています。この「○○」とは何でしょう。それは薬味でも醤油でもなく、「豆腐」です。真理は常に単純なのです。そして、良い豆腐を作るのは良水であるとし、水の良し悪しが豆腐を決めると述べています。豆腐の外見からは見えませんが、内に満ちている水の存在がその味の鍵となるのです。

旧約聖書でヨナは、神から存在を認められた人物でした。彼は敵国の首都ニネベに伝道に行きなさいと神から命ぜられましたが、反発して逃げていきます。ところが、船は嵐に遭い、一緒に乗船していた人々から「嵐の原因はお前だ」と決めつけられ、ヨナは海に投げ込まれます。彼は大魚に飲まれ、その腹の中で神に祈ります。「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。」(ヨナ書2:2)。ヨナは、悔い改めて神に祈れば、神はその祈りを聞き、答えてくださる方だということを体験しました。存在を認められるとは、このようなことです。

神から存在を認められた人は、人に対しても強い存在の承認を与えることができるようになります。それが伝道のための「良水」となるのです。今週も、神とのつながりを明確に意識し、神の「美味」を世の人々に届けていきましょう。

預言者ホセア(1月19日)

不倫報道されたタレントのCMは一挙になくなります。それは、そのタレントを起用した企業が悪い印象を受けないためです。しかし、神は預言者ホセアに対し、不貞を働いた妻と離婚せず、彼女を受け入れ、愛せよと命じました。

ホセアは、自身の破綻した結婚生活を通して神の預言を示した人物です。神はホセアにこう命じます。「行って、淫行の妻と、淫行によって生れた子らを受けいれよ」(ホセア1:2)。裏切り続ける妻を迎え入れ、さらに相手の男との間に生まれた子どもたちをも受け入れて共に生活せよ、ということです。ホセアには到底理解しがたい命令だったでしょう。

ホセアが生きていた時代のイスラエルは、バアル神の礼拝に傾き、真の神から離れていました。しかし、神は自分から離れ、他の神へと心を向けるイスラエルをなお愛しておられました。このことを知らせるため、神はあえてホセアに結婚生活を続けさせ、神の愛の実例として人々に見せたのです。

ホセアは現代の私たちへも語ります。たとえあなたが神の御心に反して進む方向を変えていなくても、神の愛は変わらないということです。この不変の愛に気づき、方向を変えるなら、今までとは全く違う新しい世界が待っています。

選びの愛(1月26日)

私たちが素直に「愛だな」と感じる愛は「心地よさ」です。赤ちゃんはお腹が空けば泣きます。するとお母さんがミルクを飲ませてくれます。私たちが人生の初期で認識する愛は、この「不快から快」への転換です。

預言者マラキの時代、イスラエルの民は神に愛されているという実感がありませんでした。彼らは心血を注いで神殿を建てましたが、現実は何も変わらず、依然としてペルシャの支配が続いていたからです。愛されている実感がなければ、神の愛のメッセージは民の心に空しく響き、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」(マラキ1:2)という痛烈な反論となって現れました。

これに対してマラキは、神の愛は選びの愛であることを根気強く民に教えます。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(マラキ1:2~3)と、「憎む」という極端な表現を使ってまで、神はヤコブの子孫であるイスラエルの民を選んでいると告げたのです。

心地よさを味わわせてもらうことだけが愛されている証拠なのではありません。私たちはどこかで心地よさの追求を捨て、この選びの愛に視点を移す必要があります。それは、わたしを選び、責任を課し、それを果たして成長するように願っておられる神との人格的な出会いを通してなされていきます。

「私は愛されている」と気づく今週でありますように...。

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