2025年3月の霊想

飼う者のない羊(3月2日)

人生には基本的な3つの問題があります。まず、人は皆、生命の危機にさらされています。1つ目は、現代医学が発達したとはいえ、人はいつ病気になるか分かりません。次に、私たちの肉体的弱さや精神的弱さがあります。そして3つ目に罪の意識があります。誰もが処理されていない過去の古傷を持っているのです。

これら人生の基本的問題の解決策を知らず、その答を求める方法も知らないまま毎日を過ごしているのが「飼う者のない羊」です。

では、どうしたらいいのでしょう。今以上に頑張ればいいのでしょうか。それとも、一切をあきらめ、なるようにしかならないと達観していればいいのでしょうか。

答えは、救い主の眼差しに気づくことです。イエス・キリストの眼差しは、「飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで」(マルコ6:34)というあわれみの目です。決して、「この人は何をやっているのだ。何度も同じ過ちをしでかして、何度反省しても変わらない」という批判の目ではありません。飼う者のない羊のような私たちの有様を、イエス様は深いあわれみの目で見ていてくださるのです。

私の味方となってくださるお方がおられるのだ、と自分の思いを新たな方向へ向ける今週として参りましょう。

苗半作(なえはんさく)(3月9日)

米作りで「苗半作(なえはんさく)」という言葉があります。丈夫で健康な苗を育てれば、それで米作りの半分は成功したも同然だという意味です。温室の暖かさの中で水と肥料が与えられ、徐々に外気に慣らし、10センチ以上の青い苗になったら出荷され、いよいよ外の田んぼに植えられます。

クリスチャンにとっての温室とは励ましの言葉や肯定的なフィードバックを与えてくれる人々のことです。あなたを励ましてくれる人との関係を大切にすることは、信仰を深める上で大きな力になります。

ある神学生が毎月1回、歴史ある教会で礼拝説教をさせていただくことになりました。牧師のひよこが何十年という信仰歴のある方々を前にして説教するのですから緊張します。しどろもどろで話していましたが、毎回必ず「今日のお説教は大変恵まれました」、「先生のお話、大変良かったです」というご挨拶だけしかいただけません。何が良かったのか語る本人がわからないでいるのに、教会員全員そうおっしゃってくださるので、彼は「良かったのだ」と思え、説教のご奉仕を続けることができました。この神学生は、信仰の言葉によって育てられたのです。

力を得て成長した後、神はあなたを温室から現実の世界へと押し出されます。十分に力をいただき、神が示される場所へと進んで参りましょう。

癒しの器(3月16日)

花子さんは、「私は頭が悪くて、聖書のことがよくわかりません!」と明るく話してくれるクリスチャンです。ある日の礼拝説教を熱心に聞いておられたので、「今日のメッセージはいかがでしたか?」と聞くと、「良かったです。恵まれました!」と元気良く言われます。「何が一番の収穫でしたか?」と聞くと、「全部です!」とおっしゃいます。「その中でもとりわけ良かったところは?」と続けて尋ねると、今度は「う~ん」と言って言葉に詰まります。

つまり、どのポイントが自分の問題の解決につながったかという分析的な聞き方をしていなかったということです。では分かっていないのかというと、そうではありません。花子さんの判断は非常に的確です。時に、論理的・分析的アプローチを超えた範囲で、見えない核心を捉え、適切な対応をすることがあります。

彼女は多くの失敗やつらい経験を重ねてきたからこそ、人の苦しみを深く理解し、共感できるのです。その結果、直感的に正しい判断ができるようになったのでしょう。花子さんはまさに、神の愛と悲しみを体現した「癒しの器」として、今、生きておられます。

すべてに意味を与えて下さる神と共に今週も歩んでまいりましょう。

主に向かって叫べ(3月23日)

「むか~し、むかし」のナレーションで始まり、桃が流れておばあさんの前まで来たところで、突然「おしまい」となるテレビCMがあります。これはある葬儀社のCMで、「それは突然やって来るのですよ」とやさしいタッチで厳粛な事実を提示してくれています。ヨエル書第1章では、イナゴの大群という大災害に対して、神のメッセージが語られています。

①「聞け」(2節)。想定外の出来事に見舞われた時は、不安の解決に走りがちです。しかし、あわてずに、まず神の言葉に耳を傾けなさいと語られています。

②「目をさまして」(5節)。「人は必ず死を迎える」という真理はなかなか実感できないものです。しかし、災いは私たちに人生の残り期間の短さを目の当たりにさせます。目を覚ますことが求められるのです。

③「泣け」(5節)。人生のはかなさは、頭でわかると同時に心でも感じる必要があります。自分の無力さを覚えて泣ける人は幸いです。

④「叫べ」(14節)。人間のはかなさ、自分の無力さに泣く人は、最後に「主に向かって叫べ」(ヨエル1:14)と言われています。神はこれに応えようと待っておられたのです。預言者ヨエルが示す神は、災いを通して祝福を与える神なのです。

心からの叫びの祈りを上げる今週としましょう。

命のパン(3月30日)

M先生は介護施設の管理者、また入居者への医療に携わる医師としての働きを何十年と続け、定年を迎えられました。介護医療の鉄人のようなその働きの秘密は、鬱(うつ)と大怪我という経験を通してキリストに導かれたことだと先生は明かして下さいました。

妙に気分が塞ぎこんだ日曜の朝、ふと教会に行ってみようと思い、そこで人間の愛とは質の異なる神の愛を知り、その愛で愛されるとはこういうことかと体験されたのです。

また、大腿骨骨折という大怪我をし、2 ヶ月間はベッドで寝たきりの入院生活を送られました。しかし、このつらい体験が医師としての生活に測り知れない財産となったとおっしゃいます。患者さんの気持ちがわかるようになり、心からのケアができるようになったからです。M先生は人としての限界を知り、洗礼へと導かれました。

自分の技量を磨き上げての医療分野でも、きっと一廉(ひとかど)の実績を挙げられたことでしょうが、M先生は命のパンであるキリストを求め、神の愛に根ざしたケアをなさいました。それが施設の入居者とその家族にとって、どんなにありがたかったことかは想像に難くありません。命のパンがあるところに飢え渇きはないのです。

命のパンであるキリストを求め、キリストに信頼して生きる。今日をそのスタートの一日として参りましょう。

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