証しの石(5月4日)「それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう」(ヨシュア記 4:7) ヨシュアに率いられたイスラエルの民がヨルダン川を渡り終えた後、神は彼らに、川の中から 12 個の石を取り出して積み上げるよう命じられました。これは、後の世代に対して、主の契約の箱がヨルダン川を渡った際、水がせき止められた奇跡を伝え、永遠に覚えるための記念とするためでした。 神が働いてくださったという「証しの石」を持つことは、とても重要です。どれほど高尚な理屈や理論が語られたとしても、「しかし、私は主によって変えられました」という事実に勝るものはないからです。 あなたは、「証しの石」をお持ちでしょうか。証しとは、「自分はこんなに立派になった」と自慢することではありません。もし成功談だけが証しになるとしたら、それを語れる人はごくわずかに限られてしまうでしょう。証しとは、「神が私の人生にどのように働いてくださったか」という事実を語ることです。 たとえ今、状況がどれほど厳しく、何一つ問題が解決されていなくても、私たちは証し人として立つことができます。なぜなら、「そのような私に神が働きかけてくださり、恵みを与えてくださっている」という事実を語ることが、まさに証しだからです。 今週も、証しの石を積み上げる日々を歩んでまいりましょう。 |
癒しの日(5月11日)寒い冬が去り、春が訪れると、教会には冬のコートの忘れ物が残されます。春の喜びの中に生きていると、冬があったことさえ忘れてしまい、何も気にならずに過ごしている...。心の傷の癒しとは、きっとこのようなものなのかもしれません。 詩篇 147 篇の背景には、バビロン捕囚からの解放と、その後の城壁再建の完成という大きな喜びがあります。エルサレムをぐるりと囲む城壁が完成し、外敵の侵入を防ぐ備えが整えられました。詩篇 147 篇には、神のうちにある安心が、具体的現実として示されています。 詩篇の記者は、過去のさまざまな苦難を、むしろ懐かしく思い返しながら、「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる」(詩篇 147:3)と記し、今の自分の心が癒されていることを実感しています。 神がなぜ人間に苦難を与えられるのかには、さまざまな理由がありますが、どれほど祈っても取り除かれない苦難もあります。また、苦難が過ぎ去っても、「なぜあのような苦労をしなければならなかったのか」と理解できずに残るものもあります。それでも聖書は、「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる」と語っています。神がそのみ言葉通りに、私たちの心に確かに癒しを与えてくださることは、揺るがない真実です。 今週も、癒しの日が必ず訪れると信じて、今日なすべきことに心を込めて取り組んでまいりましょう。 |
わたしである(5月18日)大型客船沈没事故では、助かるルートを冷静にたどれる人は 10人のうち 1 人か 2 人だけ。7 人はパニックになり、さらに恐怖で体が動かなくなる人が 1 人か 2 人いるそうです。逆風が吹く嵐のガリラヤ湖上、水の上を歩いて来るイエス様を「幽霊だ!」と見間違えた弟子たちがパニックにならなかったはずがありません。 私たちの人生も同じです。神を信じ、キリストの言葉に従って生きようと人生航路を船出します。ところが弟子たちと同じように、逆風に遭い、こぎ悩む事態に遭遇することがあります。そうなれば、私たちは弟子たちと同じようにパニックを経験します。 「ああ、パニックに陥っているんだなあ」と気づいたら、その瞬間こそ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」(マルコ 6:50)とおっしゃるイエス・キリストの言葉に耳を傾けることです。そうすると、「そうだ、自分たちだけで向こう岸に漕いで行けと言われたのはイエス様だった。嵐があって難儀しているが、このこともご存知の上で、主は私たちを遣わされたのだ」と、全ては神のご支配の中にあるのだとわかってきます。その時が、イエス様があなたという舟に乗り込んでこられた時なのです。そこから風は大なぎになり、波も心も穏やかになり、静けさの中を進む新しい人生が始まるのです。 「わたしである」と言われるキリストの言葉に耳を傾け、日々の大波を乗り切って参りましょう。 |
神の城壁(5月25日)「わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる。」(ゼカリヤ 2:5) 山形県で一番高い山は、秋田県との県境にそびえる鳥海山です。 幸い、天候は晴れ。しかし、山の天候はあっという間に変わります。雨が降り出し、ヒョウまで落ちてきました。危険とあきらめて、引き返す人たちもいます。ガイドさんはもちろんそれを引き止めませんが、不思議なことに登山中止とも宣言せず、「あそこに見える頂上まで行きたい。ここで諦めたくない」という意志のある人たちを登らせます。 やがて、頭上の黒い雲は流れ去り、暖かい太陽に照らされ、青空の下、無事山頂にたどり着きました。山登りの何たるかを知る経験豊富なガイドさんに導かれているがゆえに、あきらめずに、しかも危険の中を安全に、目標である頂上に到達できたのです。神が示す最終目標を見据え、神と共に歩むとはこのようなことなのです。 見えない城壁となって下さる神の守りを信じ、しかし自分勝手に飛び出すことなく、神と共なる歩みをする今週として参りましょう。 |
2025年5月の霊想