2025年6月の霊想

人生の大風(6月1日)

ヨナ書は、ヨナの逃亡から始まります。神は彼に、ニネベという町への宣教を命じました。しかし、ニネベはイスラエルを滅ぼそうとする敵国アッシリアの都でした。ヨナは無言の抵抗を始め、神の前から身を隠そうとして、東方にあるニネベとは正反対の、西方の果てと考えられていたタルシシへ向かいます。

ヨナのように神とも人とも関わりを持たず、ただ平穏無事に日々を過ごしたいと願うあなたに、突然問題が起こることがあります。それが、「時に、主は大風を海の上に起こされたので」(ヨナ 1:4)ということです。つまり、台風が自然現象として偶然湧き上がったのではなく、神があえて私たちの人生に嵐を投げかけられたということです。しかし、人生はそれで終わりとはなりません。神はヨナに対して、その先にご自身の使命を用意されており、彼を大きな祝福をもたらす器として用いようとしておられました。

私たちも同じです。申し分のない人生に大風が吹きつけ、理不尽さを感じる日々が続くことがあります。しかし、ヨナ書が語っているのは、それは、「神があなたを正しく用いるためにある」ということです。

「なぜ?」という問いの向こう側には、まだ見えていない神からの使命と祝福が待っています。今週もそのことを心に留めて、信仰の歩みを続けていきましょう。

バグあり人生(6月8日)

パソコンの「右クリック」や「ドラッグ&ドロップ」の概念を発明したのは、元マイクロソフト社員である日本人プログラマーの中島聡さんです。プログラムにはバグ(不具合)がつきものです。中島さんたちが開発していたウインドウズ 95 は、納期の時点で 3500個ものバグが残っていましたが、そのまま製品化されました。人間が作るものは本質的に不完全であると割り切り、深刻なバグさえ修正されていればよく、後でアップデートを繰り返して完全を目指そうというやり方です。

イエス・キリストはこう言われました。「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る」(マルコ 7:20~21)。この心の汚れ(罪)を、自分の力で取り除こうとすることをあきらめ、十字架によってキリストが私の罪を身代わりに負ってくださったと信じる者に、神は赦しを与え、その人をそのままできよい者と見てくださいます。さらに、キリストの御霊である聖霊がその人をきよめてくださいます。

たとえ自分の中に 3500 個のバグが残っていると知っていても、赦されたと信じて前に進んでいくのです。神は、そのようなあなたを用いて、世界を変えていかれるからです。今週も神の力が働くことを信じ、不完全なままの自分を神にゆだねて、一歩踏み出していきましょう。

キリストの弟子となる(6月15日)

医師になるためには、難関の医学部に入学し、卒業後に医師国家試験に合格して医師免許を取得し、さらにその後2年間の臨床研修を行う必要があります。では、もしキリストの「弟子免許」が存在するとしたら、正式に弟子として認定されるには、何が必要なのでしょうか。

弟子となるための最も手っ取り早い方法は、「従う」ことです。そして、最もやさしい入り口は「言葉を変える」ことです。「はい」と素直に従い、前向きで肯定的な言葉を使い続ける訓練が、あなたをキリストの弟子として成長させていきます。

しかし、イエス・キリストが認定する正式なコースは、「しもべに徹する」ことです。なぜなら、しもべとして人に仕える生き方こそが、イエス・キリストご自身の地上での生き方そのものだったからです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ 10:45)。

誰が一番偉いかを論じ合っていた弟子たちに対して、イエス様はこう教え諭されました。「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」(マルコ 9:35)。キリストの弟子学校において、「しもべに徹する」ことは必修科目なのです。

自分より下の立場の人に対しても、「はい」と従い、しもべに徹する道を歩んでまいりましょう。

ある日とその日(6月22日)

北朝鮮による拉致被害者のニュースに触れるたびに、なぜ普通の人がこのような理不尽な目に遭わなければならないのかと感じます。思いもよらない人生の苦しみに直面する時、ヨブ記がその助けになります。

ヨブ記の冒頭には、こう記されてあります。「ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。」(ヨブ記1:6)。ヨブの苦しみの原因は、神がサタンに対して、ヨブに災いを下すことを許されたという一点にあります。天において、その理由は明確にされているのです。

そのことは「ある日」という一語に込められています。原語のヘブル語では定冠詞がついていますから、本来は「その日」です。私たちにとって苦難は「ある日」突然、何の前触れもなく起こるように見えます。しかし天において、それは神のカレンダーに記された「その日」に予定通り起こるのです。神がご存じない所で苦難が起こることはありません。必ず何らかの理由と意味があって苦難は存在しているのです。しかし、ヨブはなぜ自分が苦しみに遭ったのか、その理由は最後まで知らされませんでした。「なぜ?」という問いに対して、必ずしも答が与えられるとは限らないのです。

自分にとっての「ある日」は、神にとっての「その日」です。苦難には神が与えた何らかの意味があることを心にとめ、今週も信仰の歩みを積み重ねていきましょう。

御言葉の確かさを見る(6月29日)

昔々、ワープロ専用機では 1MB(メガバイト)のフロッピーディスクに文書を保存していました。今やその容量の単位は、メガどころかギガを超えてテラが普通です。メガ、ギガ、テラを遥かに超えた無限の彼方から人間の時間を見れば、その見方は全く違ってきます。

米沢興譲教会 100 年の歴史の中で、小さな石油ストーブを囲んだ祈祷会で、一千人の礼拝が出来る大会堂を祈った時期がありました。熱心に祈るおばあちゃんたちは決して裕福ではなく、乏しい中から捧げ、忠実に祈り続けました。しかし、生きている間にその祈りが叶えられることはありませんでした。まことに「草は枯れ、花はしぼむ」(イザヤ 40:8)という言葉のとおりでした。

しかし、やがて神の力が現れ、否定的見方は肯定的方向へと修正され、時満ちて教会堂が建設されました。「信じたとおりになる」(マタイ8:13)という神の言葉が成就したのです。自分の目で見られるかどうかで神の言葉を判断してはいけません。見られない人の方が多いのです。しかし後に続く人たちが、先達の祈りによって積み上げられた恵みにあずかり、「しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」(イザヤ40:8)という御言葉の確かさを見るのです。

たとえ今は見えなくても、信仰の目で未来の確かさを見つめていきましょう。

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