2025年7月の霊想

偶像神と人格神(7月6日)

アイドルと言われる人気芸能人がいます。英語の"idol"の意味は「偶像」です。偶像(アイドル)は、それに願いをかける者の声を反射して、期待通りの言葉を返すのが仕事です。

聖書の神は偶像の神ではありません。ですから、イエス・キリストはしばしば人間にとって不都合なことを語られ、時には何も言わず、沈黙を守られることさえあります。

マタイによる福音書第15章では、子どもの癒やしを求めて来たカナンの女に、イエス様がどのように応じられたかが記されています。

①無視:「イエスはひと言もお答えにならなかった」(23節)。イエス様は聞いて聞かぬふりをしていました。

②拒否:「イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」(24節)。異邦人は神の恵みの対象外であるとはっきりと断られました。

③侮辱:「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」(26節)。犬とは異邦人への蔑称です。

実はこの女の霊的資質を見抜いたイエス様の御計画があり、彼女の信仰を高嶺に導く意図があったのです。

聖書の神は人格を持った神です。それゆえ、祝福も苦言も語られます。呼べど叫べど一切答えられないこともあります。それこそ真の生きた神である証拠です。そのことを覚え、たゆまず、神に祈りを捧げる日々を送って参りましょう。

肯定の塊(かたまり)(7月13日)

メジャーリーグで大活躍の大谷翔平選手の試合後の会見は、前向き肯定的態度の見本のようなものです。投手として打たれた後は、「序盤はしっかりゲームを組み立てていけたのは良かったんじゃないかと思います」。ノーヒットに終わった後は、「それぞれの打席でいいアプローチはできていたと思います」。反省の言葉を出し、後悔の念で試合後の時間を過ごすのか、それとも、良い点を見つけ、自分を励まして一日を終わるのか。一流と二流の違いは紙一重。言葉を選んで前向きに言うかどうかです。

「大谷選手は特別なのだ。私なんかその反対の否定の塊(かたまり)だ」と思っている方はおられませんか?実はそのあなたこそ大谷選手のような特別な存在となる可能性を秘めています。どういうことでしょうか?何を見ても何を聞いても全て否定的にとらえるのは、今までの人生の中で徹底的に訓練されてきたからです。そこまで訓練できたのですから、逆もまた真なりです。同じ訓練を今までと逆方向に使えば、今度は肯定の塊(かたまり)になって前向きな言葉しか言わない人になります。否定的な面で飛び抜けている人は、方向さえ変われば、肯定的な面でも飛び抜けた存在になれるのです。

「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい」(コロサイ3:16)。この一事に努めて参りましょう。

聖書の読み方(7月20日)

推理小説では、最後に名探偵が理詰めで謎を解き、読者は爽快な気持ちになります。さて、もう一度最初から読み直してみると、作者が随所にヒントを散りばめていたことに気づかされます。難しいとされる旧約聖書を読むとき、先に新約聖書を読むのは、これと似た理由によります。

イエス・キリストはこう言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)。ここで言う聖書とは旧約聖書のことです。ですから旧約聖書を読む際には、その前に新約聖書を読み、キリストの教え、十字架、そして復活という救いの光をもって読むことが必要です。これがキリスト中心の読み方です。

まず福音書を読み、イエス・キリストが何を言い、どんなことを成したかを知り、この方がいかなる御方であるかを理解することが聖書全体に通ずるための第一歩です。すると、推理小説を二度目に読むときのように、救いが完成した後の地点から、かつての未完成の時代を見るので、旧約時代の人間の生き方にある欠点や美点も、より深く納得できるようになります。

新約の光を当てて旧約を読み、旧約の土台の上で新約を理解することが、聖書を読むときの理想的な読み方です。キリストを中心に置いて聖書を読む日々を続けて参りましょう。

信仰の大転換(7月27日)

明治の大キリスト者である内村鑑三は、一度結婚に失敗しています。親の反対を押し切って結婚し、しかも信仰を持ったクリスチャン同士が半年で離婚ですから、当時としては一大事です。彼は再起を図り、アメリカに渡航しました。しかし、日本ではエリート役人だった内村がそこで得た職は、全く畑違いの知的障害児養護学校の看護人でした。

彼はこの苦労を、自分が犯した自己中心の罪の罰、そしてそのために神が与えた試練であり、自分の努力でこれを解決し、乗り越えなければならないと考えました。そのような時、彼はアマースト大学のシーリー学長と出会い、それが彼の人生を変えました。

「内村君、自分の力で自分を聖くしようとしても、到底できるものではない。自分の罪に代わって十字架に釘づけられて死んだイエス・キリストにおいて初めて克服できるものなのだ。何故キリストが十字架の刑に遭って死んだのか、その意味のほうを先に考えなさい」。自分の側からしか見ていなかった内村鑑三に対して、シーリー学長は神の側からの視点を与えました。限界ギリギリにまで来ていた内村にとって、それはまさにブレイクスルーの言葉となって心に飛び込み、彼の信仰の大転換の時となったのです。

限界が見えてきた時こそ、神の御手が見える時です。恐れずその手にすがり、謙遜に神の恵みを受けて参りましょう。

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