2025年11月の霊想

限りなき愛(11月2日)

「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。」(エレミヤ31:3)

 

山形県産の高級果物として名を馳せるラ・フランス。その収穫直後は、醜いジャガイモのような外見です。昔の人は、これを「みだぐなす」と命名しました。「見たくなし」、つまり「みばえが悪くかっこ悪いもの」という意味です。

しかし、ラ・フランスの生産者はこれを10日から2週間ほど冷蔵庫に入れます。摂氏2~3度の冷気の中で、果実の呼吸はほぼ止まります。息が詰まる時間を経た後、常温に戻すと、ラ・フランスは一斉に呼吸を再開し、実の中のデンプンを様々な糖分に変え、ペクチンのゲル化により舌触りの滑らかさが増します。この追熟があるおかげで、「みだぐなす」はフルーツの女王となるのです。

たとえあなたが自分を「みだぐなす」だと思っていても、神はあなたの中に「ラ・フランス」を見出しておられます。神はあなたの未来と価値を知っておられ、限りなき愛を持ってあなたを愛しておられるのです。それは、最も愛する神のひとり子イエス様を十字架につけ、罪の身代わりとしてでも、あなたという存在を取り戻そうとされたほどです。ありのままの自分を受け入れ、神に愛されている者として、感謝と平安に満ちた日々を歩んでまいりましょう。

すこやかであるように(11月9日)

人は還暦を迎えたり、終活を意識し始めると、急に老け込むと言われます。名前で呼び合っていたご夫婦でも、孫が生まれると、相手を「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ぶようになります。すると、人間の脳は「私はおじいちゃん、おばあちゃんになった」と解釈し、それに合わせて老夫婦たるにふさわしくなるように体の動きを制限します。ですから、孫に自分を「○○さん」と名前で呼ばせたり、「ママの上だから大ママなの」と言わせる人の場合、老化と言っても一挙にではなく、ジワジワと進んでいくように見えます。

同じ脳の中に入れる情報なら、不安を煽る情報ではなく、希望をもたらす情報を入れましょう。神の基本的な御心は私たちが健康であることです。「主よ、わたしをいやしてください、そうすれば、わたしはいえます。わたしをお救いください、そうすれば、わたしは救われます」(エレミヤ 17:14)。主なる神は癒す力を持ち、私を救う力のある方であるという情報を自分に身につけさせるのです。その思いがあなたの日常生活で助けとなります。

10 年後の自分に健康な体をプレゼントするために、今日の自分の勤めとして心に良い情報を入れましょう。神の癒しの力を信じ、健(すこ)やかな毎日を送って参りましょう。

翻(ひるがえ)って生きよ(11月16日)

自分のせいにせず他者に責任転嫁する性質は、アダムとエバ以来の人間の固有の性質です。バビロン捕囚時代のイスラエルも、自分たちが捕囚の憂き目にあっているのは我々のせいではない。先祖の罪に対する刑罰だ、と考えました。

預言者エゼキエルはこの考え方に真っ向から反論しました。人は他人の罪の重荷を負うのではなく、自分の罪の重荷を負うのです。与えられた環境はどうあれ、私は私の責任を負うと決断し、方向転換する時、神の導きが明らかにされます。「わたしは何人との死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル 18:32)。

Y兄は、貧しい家庭と酒乱の父、早く亡くなった母という厳しい環境に生まれました。荒れた青春を送る中で、唯一の光はクリスチャンの祖母の祈りでした。やがてその祈りが聞かれました。「このままではいけない」と気づいた彼は、生まれ落ちた環境を呪わず、自分がやったことのみに目を止め、そこでの悔い改めを果たしたのです。神に降参したその歩みの中で、彼は教師となり、かつての自分のような生徒の声に耳を傾ける先生となりました。

神は翻って生きる人生を祝福されます。あなたの責任のみに目を向け、その責任を神の前で果たすことに集中して参りましょう。

罪をゆるす方(11月23日)

「そろそろ終活を」と遺言状を考え始める方もおられるでしょう。その際に大切なのは、「遺言執行能力のある人物に託す」ことです。これが最後の重要なポイントとなります。

列王紀上にはダビデの遺言が記されています。「ダビデの死ぬ日が近づいたので、彼はその子ソロモンに命じて言った」(列王紀上2:1)。彼の遺言は何だったのでしょう。財産の処分ではありません。彼の在世中、正義を通したくても通せず、そのままにしておかざるを得なかった重要な問題が数個ありました。その処分を、次の王ソロモンに任せたのです。罪は罪として見逃されずにその支払いを求められ、功績に対しては報いを与えるというように、正しく筋を通すようにしたのです。知恵の王ソロモンは、相手にぐうの音も言わせず、きっちりとこの仕事を果たしました。

ソロモン王よりはるかに偉大な神に、私たちの罪の支払いを請求されたら、どうすることもできません。「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)だからです。しかし、その死を身代わりに受けて下さったのがイエス・キリストです。この救いを信じるだけで私たちは罪がゆるされ、永遠の命が与えられます。

もう罪を追求する者はいません。今週も罪赦された恵みに感謝して歩んで参りましょう。

アドベントの意味(11月30日)

本日からアドベントに入ります。アドベントとは「来臨」を意味するラテン語で、クリスマス前の4週間、イエス・キリストの降誕を迎える心の準備をする期間(待降節)です。この時期の本質は「神の時を待つこと」にあります。

救い主の誕生は旧約の預言者イザヤを通して告げられていました。「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ7:14)。では、この預言が成された翌年にイエス・キリストが生まれたのでしょうか。いいえ、イザヤからマリヤまでには約700年という長い時が流れています。

「待つ」という行為は一見受動的に見えますが、その奥底には、神の約束を信じ続ける強さが秘められています。周囲から「何も起こらない」「本当に成るのか」と疑いの声が上がっても、信仰者は神の約束の実現を信じ、成就の時に備えて今日を整えて歩むのです。

時には、その態度が頑固に映ったり、理解されずに批判されることもあります。もちろん、人の助言に耳を傾ける謙遜さは必要です。しかし、誰からも理解されなくても、ただイエス様だけがこの私を理解してくださるというギリギリの境地に立つことは誰でもあるのです。その時に、イエス様を我が身を支える杖として生きていく。これが「待つ」という信仰の実際の姿です。

神の約束の成就を信じつつ、救い主の降誕を待ち望むアドベントとしてまいりましょう。

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