奇跡を受ける器(12月7日)ある釣り人が小さな魚だけを持ち帰り、大きな魚は海へ逃がしていました。その理由を尋ねると、「あの魚は大きすぎて台所のフライパンに入りきらないから」と答えます。せっかく大きな可能性が目の前にあっても、自分の器に合わせて手放してしまうとは何とも残念な話です。 列王紀下第 3 章では、イスラエル・ユダ・エドムの三王が水不足に苦しむ中、預言者エリシャを訪ね、危機を乗り越えるために神の言葉を求めます。「わたしはこの谷を水たまりで満たそう」(列王紀下3:16)という預言の通り、風も雨もないのに翌朝には水が満ちました。エリシャは「これは主の目には小さい事である」(18 節)と語ります。 私たちがすべきことは、神の大きさを自分サイズに合わせないことです。「この程度なら叶うだろう」という計算で信仰を制限せず、神の「大きな魚」を受け取るために、私たちの「フライパン」を大きくするのです。 1977 年に打ち上げられたボイジャー1 号・2 号は、太陽系を離れて恒星間飛行となり、今も地球へデータを送り続けています。実は技術者たちは、当初与えられた木星と土星という目標を越え、「もっと先を見て」準備していたのです。これは可能性を制限しなかったからこそ実現した偉業です。 神に願うとき、私たちも自分サイズに縮めず、大胆に願いましょう。そして、大きな奇跡を受ける器として歩んでいきましょう。 |
喜びを受け取る(12月14日)日本女性として初めて北極点に到達した和泉雅子さんによると、危険なクレバスを渡る際、スタッフの誰かが必ずジョークを言うのだそうです。そして一同が大笑いした直後、「行くぞ!」と声がかかり、一気に進み出します。身体も精神も緊張していると逆に危険で、リラックスしていてこそ柔軟に対応できるという知恵からでした。 イエス様も、弟子たちにご自分の受難を告げる前に「人々は、わたしをだれと言っているか」(マルコ 8:27)と尋ねられました。うわさ話は気軽に答えられるため、弟子たちは「ヨハネだと言う人も、エリヤだと言う人もいます」と和やかに応答できます。イエス様はこのように弟子たちの心をほぐし、重大な知らせである受難予告を受け入れやすく整えてくださったのです。そこには弟子たちへの深い愛がありました。 この姿勢は今の私たちにも同じです。人生の先が見えず不安を抱えていても、イエス様と共に歩む者は、知らぬ間にその闇を安心して通り抜けていくことができます。主は日ごとの喜びや笑いを通して私たちをリラックスさせ、大きな出来事に踏み出す力を備えさせてくださるのです。 今日の小さな喜びを味わい、イエス様と共に笑いながら歩むことこそ神の御心です。そうする時、大きな一歩を踏み出す勇気も与えられます。今週も神の喜びを受け取り歩んでいきましょう。 |
不安の中の平安(12月21日)ルカ 2章1節~4節は、皇帝アウグストの人口調査の勅令をきっかけに、ヨセフと身重のマリヤがナザレからベツレヘムへ向かったことを伝えています。彼らは、「ベツレヘム・エフラタよ、‥、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る」(ミカ 5:2)というミカ書の預言を意識して移動したのではありません。むしろ、重い負担となる人頭税徴収のための人口調査という、ローマ帝国の欲望から出た命令に従わざるを得ず、望まない旅に押し出されたのです。マリヤは安全なナザレではなく、ベツレヘムの厳しい環境の中でイエス様を産むことになりました。しかし、この予期せぬ出来事こそ、何百年も前から預言されていた神のご計画の成就でした。 私たちも、他人の思惑や社会の流れに振り回され、願う形とは違う道を歩まされることがあります。「神がいるならどうして」と思わずにはいられない状況に置かれることもあります。しかし、ヨセフとマリヤの歩みがそうであったように、理解し難い出来事の背後でも、神はご計画を確かに進められています。神は、神を認めないローマ皇帝の行動さえ用いて、導きを成し遂げられる御方なのです。 私たちは運命に流されているのではなく、神の確かな導きの中を歩んでいます。このことを信じ、不安の中にこそ平安を見いだすクリスマスとしていきましょう。 |
従順というスイッチ(12月28日)「あなたがもし、主がイスラエルについてモーセに命じられた定めとおきてとを慎んで守るならば、あなたは栄えるであろう。心を強くし、勇め。恐れてはならない、おののいてはならない。」(歴代志上 22:13) 聖書のおみくじ的読み方というものがあります。「神様、良い御言葉をお願いします」と祈って開けた箇所が神からのメッセージだとする読み方です。しかし、それではいけません。聖書は切り取って読むのではなく、背景や文脈を踏まえて読むことが必要です。 この箇所は、ダビデ王が息子ソロモンに語った励ましです。神殿建築を願っていたダビデでしたが、神から「おまえではなく子が建てる」と告げられました。そこで自らは建てず、代わりに膨大な資材と準備を整えてソロモンに託したのです。ソロモンは父の機嫌を取ったり、必死に資金を集めたりする必要はありませんでした。祝福はすでに備えられていたからです。彼に必要だったのは、神の律法に従順に歩むことだけでした。 祝福は、自力で絞り出すように苦労して得るものではなく、従順というスイッチを入れることで流れ込んでくるものです。重い水を運ばずとも、水道のレバーを上げ下げすれば水が出るように、従順の信仰によって神の恵みがあなたに届くのです。 今週も、備えられた祝福を信じ、従順に歩む者として進んでまいりましょう。 |
2025年12月の霊想
