私たちが素直に「愛だな」と感じる愛は「心地よさ」です。赤ちゃんはお腹が空けば泣きます。するとお母さんがミルクを飲ませてくれます。私たちが人生の初期で認識する愛は、この「不快から快」への転換です。
預言者マラキの時代、イスラエルの民は神に愛されているという実感がありませんでした。彼らは心血を注いで神殿を建てましたが、現実は何も変わらず、依然としてペルシャの支配が続いていたからです。愛されている実感がなければ、神の愛のメッセージは民の心に空しく響き、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」(マラキ1:2)という痛烈な反論となって現れました。
これに対してマラキは、神の愛は選びの愛であることを根気強く民に教えます。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(マラキ1:2~3)と、「憎む」という極端な表現を使ってまで、神はヤコブの子孫であるイスラエルの民を選んでいると告げたのです。
心地よさを味わわせてもらうことだけが愛されている証拠なのではありません。私たちはどこかで心地よさの追求を捨て、この選びの愛に視点を移す必要があります。それは、わたしを選び、責任を課し、それを果たして成長するように願っておられる神との人格的な出会いを通してなされていきます。
「私は愛されている」と気づく今週でありますように...。