1999年4月の霊想

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イ ー ス タ ー 何 を 喜 び 祝 う の か  (4月4日)

 世界中のクリスチャンと共に、この朝、主イエス・キリストのよみがえりを心から祝うことができるのは、何と大きな喜びでしょう。地上での死が終わりではなく、私たちが永遠のいのちに生かされているという約束は、イースターがもたらす、私たちへの限りない希望です。
 ところが、私たちはこの地上にあって、いろいろな出来事を通していかに失望し、自分を生きず、死んでいることでしょう。それは、ルカ福音書にある放蕩息子のように、父(神)のもとを離れ、父との豊かな交わりに生きる人生が欠如しているということです。その放蕩息子が父のもとに帰った時に、父は次のように言いました。
「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに
 見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえで
 ある」。 (ルカ福音書15・32)
 イースターに心することは、神との交わりの中で生きる時に、祝福の中に埋没するのでもなく、また、試練の日に希望を失うのでもなく、どのような状況もいのちあふれて生きることができるということです。これこそ、「死んでいたのに生き返る」という、イースターの大切な中心メッセージです。それゆえ、イースターは、この日だけを言うのではなく、神に生きる三六五日の出来事としてとらえていくべきものです。

  やってみせて人は育つ  4月11日) 

「近頃の若い者は」と嘆く人がいる。「そんなことを言うが、お前たちだって若い時は」と、逆に言われてしまいそうである。人を育てることは、どの時代でもやりがいのあることのようである。
 人育ての名人と言われた山本五十六元帥は、「やってみせて、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かず」と言った。この言葉は、山本元帥のオリジナルではない。もともとは、米沢藩主・上杉鷹山の言葉である。鷹山の原語は、「やってみせて、言って聞かせて、させてみる」というものである。
 今求められている人材は、この「やってみせて」くれる人である。日本が世界のリーダーとして、二十一世紀もリードしていくためには、誰かを追いかけていくことだけではなく、先を競って、してみせる人が多く起こされることである。
 イエス・キリストが十字架につけられてから、二千年が過ぎようとしている。にもかかわらず、彼を信じる人がいるのは、まさに、「やってみせて」を実践された方だからである。
「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのため
にキリストが死んで下さったことによって、神はわ
たしたちに対する愛を示されたのである」
            (ローマ5・8)  (A・T)

                  

  神の実体  (4月18日) 

聖書の中に「実体」という言葉はありません。しかし、それを表す言葉があります。それは「名」です。「名」は、単なる記号ではなくそのものの本質を指します。まさに名は体を表すもの、それが聖書の「名」の概念です。
 神にはいくつかの名があります。エルシャダイ(神は全能)、ヤーウェ(常におられる方)、ヤーウェ・ニッシ(主は我が勝利の旗)、ヤーウェ・シャローム(主は平和)いずれにしても神の名は、神の実体を現します。
 この神の名は、キリストの出現によってすべてイエス・キリストという名に集約されます。この名に勝る名はありません。『この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである』  (使徒4:12)
 イエス・キリストとは単なる名前ではありません。神の愛そのもの、神の愛の実体ということです。その実体は、あの十字架の上で最高にあらわされました。それは無条件の愛です。この名(実体)だけが私たちを救いうるのです。
 混沌とする現代社会にあって、人々は説明ではなく愛の実体を求めています。そんなただ中にあって、私たちは、イエス・キリストという単なる名前ではなく、神の愛の実体をあらわしてまいりましょう。それこそが、キリストの名を伝えることです。

   共におられる神  (4月25日)  

主は、「わたしは、決してあなたを離れず、   
   あなたを捨てない」と言われた。        
          (ヘブル人への手紙第13章5節) 
  ここで用いられている原語には、「過去に一回も離れず、一回も捨てたことがない」という意味が含まれています。しかも、「決してない」という強い口調が込められて、最大限の表現で、私たちを力強く守り通される主を現してくださっています。
 サンフランシスコ地震の時、二階建て高速道路の柱が折れ、走っていた車はことごとくつぶされてしまいました。誰一人として生存者はいないだろうと思われた中、約一週間後、一人の男性が生きて助け出されたのです。彼は、その一週間、み言葉を口ずさみ続け、「私の主は必ず助け出してくださる」と確信してやまなかったそうです。助け出されたその日、彼は両手を高々と挙げ「ハレルヤ!」と叫び、みんなに証ししたのでした。   
 主は、一度も、私たちのところからいなくなったり、忘れたり、ということはありません。むしろ、困難、孤独の壁が重く目の前に立ちはだかった時にこそ、主は、私たちと共にいてくださるのです。
 今週も、神様の言葉を信じ、生活の中で実践してまいりましょう。
(N・S)

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