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止 ま る 恵 み (6月6日)
何かしていないと不安でならない、という方がおられます。それほど現代は忙しく、動いていることで存在感を得る習慣がすっかり身についたのかも知れません。
聖書は、新幹線のように走り抜くだけではなく、時に生活の中で停車することのすばらしさを語っています。
静止。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46・10)。体は動かしつつも神様のことを思い、主に心をとめることは、どんなにお忙しい方にも可能なことです。台所で、あるいは、職場で、ほんの数秒でも静止の時を持つ習慣を身につけたいものです。
休止。ながら族ではなく、真の意味で時間を取り、心のわだかまり、重荷を、しっかりとイエス様におゆだねし、お返しすることです。これは、神様との交わりの中で、欠くことのできない時です。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11・28)は、あなたのために与えられたみ言葉ですから。
停止。最も大切なことは、自我に気づき、その自我に死ぬことです。これこそ、最終目標です。一粒の麦、地に落ちて死ぬ、これは、聖霊様によってすべての人に与えられた霊的深みであり、ゴールです。
静止、休止、停止、心して一週間歩みたいものです。 |
主 の 香 り (6月13日)
キンモクセイの香りをお好きな方がいらっしゃることでしょう。
都会育ちの子供が田舎にやって来て、このキンモクセイの香りに触れ、「あっ、お手洗いの匂いだ」と反応しました。お手洗いで人工のキンモクセイの香りを経験しているため、本物に出会った時、生きた体験を実感できなかったことは、まことに残念です。
私たち人間も同じです。本来、神の作品として、祝福の基となるために、この地上に生かされています。しかし、罪の中に生まれたため、「お手洗いの匂い」と言った少年のように、本物を体験しても、物事をつい、否定的・消極的に受け取りがちです。
人生の目的は、偽物から本物へ乗り換えて行くことです。この人生の目的を、主にあって強烈に語り、描きつつ(信じつつ)行くならば、どの人も、本物体験ができるのです。
今週も、生活の慌ただしさに振り回されることなく、主の香りを体験してまいりましょう。
「北風よ、起れ、南風よ、きたれ。
わが園を吹いて、そのかおりを広く散らせ。
わが愛する者がその園にはいってきて、
その良い実を食べるように。」(雅歌 4・16) |
人 生 充 実 の コ ツ (6月20日)
いつか、人生はよくなるだろう--との人生哲学は、満足からほど遠いものになります。
もし、あなたが未来形で物事を考えているなら、「いつか」が現実になったとしても、依然、不満足なままでしょう。今を十分に生きようとしない未来志向は、いつも、あなたをがっかりさせ、欲求不満に陥れます。仕事を見つけたら、子供が変わったら等、たとえ、願った状況を見い出しても、非現在形で物事を考える癖が付いているため、あなたは、また同じ考えを繰り返すのです。
子供は、何をしていて、誰と一緒にいても、その場に没頭します。その場から得られるものを、一滴残らず吸収するのです。神との交わりに生きる神の子たちも、「人生は、今、ここだけである」と、現在を十分に生きることです。たとえば、車で移動する中、時間が間に合わないかも知れないとします。その時には、遅れて着いた時に起こることを思いめぐらすよりも、
今、車の運転に集中することです。
今、そして、今日一日を、人生最後の日と思って生きるなら、実際、最後の日がきても、あなたには悔いがないでしょう。あなたの人生は主にあって最高です。一瞬一瞬を、恵みと感謝の気持ちで生きてまいりましょう。
「今は、恵みの時」(Ⅱコリント6・2) |
父よ、彼らをおゆるしください (6月27日)
窮地に陥ったり、危機的状況に直面する時、その人の本心が、余すところなく表されるものです。
十字架上、肉体的、精神的な苦しみの極みの中、イエス・キリストが語られた第一声は、「父よ、彼らをおゆるしください」(ルカ23・34)でした。それは神を「父」と呼ぶ祈りでした。
私たちの人生も、大小様々な十字架に彩られます。その時に、語る最初の言葉が、サタンの指令、あるいは、サタンとの交信からくる愚痴や不平ではなく、「父よ」と神に祈る言葉でありたいものです。
さらに、十字架上での第一声は、自分自身の苦しみを嘆願する言葉ではなく、無知ゆえに、キリストを十字架につける人々へのとりなしでした。
私たちが試練に会う時、どれほど自動的に、人や状況を非難してしまうことでしょう。非難の目で人やものを見ると、非難したくなるようなものが見え、その否定的な情報だけが、とどまることなく、あなたの内に配達されることになります。
今週も、あなたの置かれている人間関係の中で、神に愛されている者、イエス様の弟子の一人として、キリストが十字架上で語られた第一声を、心にとめて歩んでまいりましょう。 |