2001年7月の霊想
岐 路 (7月1日)
今、日本は、大きな岐路に立っています。今までの生き方の良さを保ちつつも、また新しい視点で脱皮しなければならない時が来ています。
農耕民族である日本人は、その働きを天候に頼るところが大きく、判断ミスを犯しても、直接命が脅かされることがありません。日照りや冷夏によって作物が実らない時は自分の責任ではなく「天候が原因」と言います。「和をもって貴しとなす」民族は、一人一人が自立すると共同体が成り立たないので、和を乱すことを極端に恐れ、集団の中に埋没してしまうことになります。
このような生き方は、時に功を奏しますが、今や、狩猟民族的な生き方も必要な時代です。
狩りは、一人一人の責任において生きた動物と向かい戦わなければなりません。大きな狩りは、協力し合うこともあるでしょう。しかしそれも他人任せではなく、獲物を獲得しなければならない厳しさがあり、一瞬のチャンスを逃し、矢を放つ決断力、判断を誤ると、自らの命を危険にさらすことになります。
このような生き方に慣れていない私たちが今できることは、一人一人が、神に与えられた作品として自分を見い出すことです。その自分を育て、自分らしさの音色を奏でていく、この生き方が二十一世紀を形作るのです。 |
魅力ある証し人 (7月8日)
Aさんはリストラに遭い、職を求めながらもなかなか決まらず、家族あげて祈っておられました。このような不況の折にもかかわらず、好条件の会社の面接に行くことになりました。いろいろと条件が厳しく、良き保証人が要り、また推薦状も要ることなどに当惑しながらも、Aさんは、面接に臨みました。
何かの話の折に、自分が米沢興譲教会に集っていることを話しました。先方の社長さんはクリスチャンではありませんでしたが、「あの米沢興譲教会に行っているのならば、間違いない」と、他の一切をチェックせず、難関を突破して就職できたのです。
私たちの群れは、揺るがないみ言葉の土台によって建てられた、聖なる教会であることがすべてです。と同時に、米沢興譲教会に集っていらっしゃる方々、霊想をお読みのお一人びとりが、信仰を生活の中でしっかり生かして、地域社会に良き証しを立てておられることが、またこのような一つの証しをもたらしました。
家庭で、職場で、地域で、この時代にあって、あなたがみ言葉に立ち、自分の自我やわがまま、この世の思い煩いなど、どのような戦いにもしっかり勝ち抜いてまいりましょう。そのいのちあふれる証しが、米沢興譲教会を支えるだけでなく、この時代を変えていくのです。 |
イエスの名によって (7月15日)
祈りの時に「イエス様の御名によって」と祈ります。なぜ、イエス様を通して神様に祈るのでしょうか。
1 イエス様のあがないのゆえに
私たちはみなアダムの子孫で、生まれながらの罪人であることを認識できません。しかし、イエス様が、罪を担ってくださり、サタンから買い取ってくださった(あがない)ゆえに、罪がゆるされ、神様と会話ができるようになったからです。
2 イエス様のとりなしのゆえに
きのうもきょうも、そして永遠に変わらないイエス・キリストは、今もあなたのためにとりなしてくださっています。「彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので……」(ヘブル7・25)
そのとりなしとは、罪のとりなしです。私たちは、救われていても罪に陥ります。そこを悪魔は責めますが、イエス様はいつもあなたの弁護人となり、あなたが悔い改め、立ち返ることを望んでおられるのです。
また、祈りにならない祈りのためにもとりなしておられます。どう祈ったらよいかわからない時、自己中心で見当はずれ、信仰が伴わず、熱心さが足りないような祈りをする私たちを、神様にとりなしてくださるのです。
この日も、イエス様の名によって祈る祈りが深められますように。 |
小 事 に 忠 実 (7月22日)
「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」
(ルカ16・10)
この聖句から、「勤」「倹」「譲」の3つの漢字が思い起こされます。一人びとりの幸せのみならず、世の中そのものが発展するための処方箋がここにあります。
「勤」とは、言うまでもなく、勤勉に働くことです。よく勤め働くとは、小事を大切にすることに他なりません。
「倹」とは倹約のことです。物余りの時代であり、つい、大切なことを忘れやすい時代です。しかし、倹約とは、決してケチるということではなく、どのように裕福であっても、物を大切にすることを忘れないで生きることです。すべての豊かさは、倹約の種が花開いたからこそ与えられたのです。
「譲」とは譲ることであり、米沢興譲教会の由来でもあります。「謙譲語」という表現法があるように、人を自分よりもすぐれた者とすることです。大胆に、しかし控え目に―このことは、どの道を生きるにしても、豊かな道を生きる秘訣です。
今週も、「勤」「倹」「譲」の3つを、心して歩んでまいりましょう。 |
ランニング・ハイ (7月29日)
マラソン選手が過酷な42・195キロを走る中で、「デッド・ポイント(死の地点)」と呼ばれる、三十五キロ地点があります。そこでは、心臓が高鳴り、息も絶え絶えで、「もうダメ」と思ってしまう限界の壁にぶつかるのです。
多くの人はそこで脱落することになります。しかし、そこを乗り切ると、突然体が楽になり、羽のように軽く走ることができるといいます。この状態を、「ランニング・ハイ」と呼びます。
それは、麻薬の三十倍の快感と言われる脳内ホルモンが出るためです。この物質は、まったく副作用がなく無害です。
このような体験は、マラソン以外でも得ることができるのです。それは、「無償の奉仕」をする時です。その時に、何と、同じホルモンが脳から出るというのです。
自分を他者のために提供する生き方の中に、人生最高の充足感を味わえる物質を自らが生み出すことができるとは、何とすばらしいことでしょう。三十倍の確かさ、充足感が、与える人生の中に隠されているのです。
今週も、この宝を大いに活用し、味わっていきたいものです。 |
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