2001年12月の霊想
アドベントに寄せて (12月2日)
本日より、アドベント(待降節)に入りました。
クリスマスを前に、忙しい日々のことと存じます。しかし、その忙しさの中にあっても、21世紀の最初のクリスマスを、あなたの生涯で忘れることのできないクリスマスとなさってください。
今年は毎週、プロの朗読家が、クリスマスのために特別の聖書朗読をしてくださいます。今週は井上静子姉、そして、第二週は香曽我部恵子姉、第三週が中條明子姉と続きます。
クリスマスは、何よりも、み言葉によって備え、み言葉を味わい、み言葉の豊かな実を結ぶことです。このことこそが、クリスマスの最大の勘どころです。
美しく飾られた礼拝堂もさることながら、神の宮であるあなた自身が聖霊によって備えられ、み言葉に支えられた日々の歩みが豊かに導かれますように。
「初めに言があった。言は神と共にあった。
言は神であった。この言は初めに神と共にあった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。
わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子
としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」
(ヨハネ1・1~2、4、14) |
限りない成長に向けて (12月9日)
「……成長させて下さるのは、神である。……大事なの
は、成長させて下さる神のみである」。
(Ⅰコリント3・6~7)
人間にとって最もすばらしく、感動に満ちたことは、成長することです。人間の内面が豊かに円熟し、成長する魅力は言葉で表現することができません。
この成長の鍵は『変化』です。
肉体的に成長期の子どもはジッとしていられません。いつも新しいこと、変化を望みます。しかし、人間は年を取るごとに変化を恐れ、臆病になることがあります。まさに『大変』という字が大きく変わると書くように、小さな出来事でも大変な出来事と受けとめてしまうからです。そして、失敗や人の評価を恐れるからです。
それに反して、神様の評価に生きる人は、成長を恐れません。たとえ失敗しても、それは失敗ではなく、「これよりもっとすばらしい方法のあることを見い出した」と、前向きに受けとめます。この地上での最後の瞬間まで、成長し続けていきたいものです。
自分の力で成長しようと思うと限りがあり、行き詰まります。しかし、何よりも大切なことは、成長させてくださる神様です。上記のみ言葉を心にとめ、今週も、前進してまいりましょう。 |
神様からの招待状 (12月16日)
病まなければ 捧げえない祈りがある。
病まなければ 信じえない奇跡がある。
病まなければ 聞こえないみことばがある。
病まなければ 近づきえない聖所がある。
病まなければ 仰ぎえない聖顔がある。
おお、病まなければ
私は人間でさえあり得なかった。
河 野 進
人生において、多くの精神的、肉体的、経済的試練に突き当たるものです。
しかし、右の詩にあるように、それらの試練は、私たちに祈りを、奇跡を、そして何よりも神様との深い交わりをもたらします。
日々、大小様々な試練に出会うとき、そのことによって打ちひしがれるのでもなく、また、あきらめたり、逆に振り回されるのでもなく、その試練は神様からの、祝福と恵みの世界への招待状であることを、今週も、しっかり覚えたいものです。
「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」 (ヘブル2・18) |
きょうダビデの町に (12月23日)
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主が
お生れになった。このかたこそ主なるキリストである」
(ルカ2:11)
ルカはなぜ、ベツレヘムをあえて「ダビデの町」と紹介しているのでしょうか。ここにクリスマスの二つの祝福があります。
ダビデは、サウルの後を受けて王になる前、言葉に表せない試練、困難の中を通されました。ダビデは、彼を殺そうとするサウル王を逃れ、ペリシテの王にかくまってもらおうとしましたが叶わず、狂気を装わなければならないほどでした(詩34)。しかし神は、試練の極みの中にあったダビデを歴史の中で確かに守られました。キリストは、いかなる人々の試練のただ中にも来て、確実に働かれるのです。
ダビデは王となりましたが、自分の欲望のため部下ウリヤを殺し、さらなる大罪を犯しました。しかし、深い神のあわれみはその悔い改めを受け入れ、ダビデは天寿を全うしました(歴代上29:28)。ダビデの内に働かれた神は、キリストとなり、すべての罪人のただ中に来て、その悔い改めを受け入れ、いやしてくださいます。
「ダビデ」の町を通してもたらされた祝福を、今年もしっかりと心にとめたいものです。 |
豊 か な 実 (12月30日)
私たちが今最も忘れているものは、夢を描くこと、希望を持つことではないでしょうか。
人々の会話が消極的でしめりがちになるのは、神様が私たちに与えてくださった豊かな想像力を活用しないことにあるようです。
「愛するとは、想像力である」という定義に異論はないでしょう。同じものを見、同じ状況から限りない無限の可能性や祝福を読みとり、それを口にし、また、現実に形にしていくことができるのは、神の作品の人間にのみできることです。さらに、私たちの信じる神様は無から有を創造できる神様であることを心にとめたいものです。
著名な作詞家・西条八十は、ある年のクリスマスの礼拝に出席しました。ふと、礼拝堂の天井を見上げると、一つだけ切れて光を放っていない電球を見ました。それを見て「歌を忘れたカナリヤ」を作詞したのです。
電球が切れていることに悲しみだけを見いだすのではなく、そこから、豊かな詩を生み出すことができるのです。その鍵は、あなたがいのちにつながることです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」のみ言葉のように、枝としての使命をしっかり果たすと、やがてそこに豊かな果実を実らせていくのです。 |
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