2006年9月の霊想
三つの名前 (9月3日)
人は様々な名前を持っています。作家はペンネーム、芸事をなさる人は芸名があります。しかし、誰もが三つの名前を持っています。
一、親につけてもらった名前。米沢興譲教会には多くの方がお集いになられるため、同姓同名の方が何人もいらっしゃいます。
二、あなたが自分につけている名前。「自分は○○である」―この○○に「弱い」とか「欲張り」とか、誰もが自分で名前をしっかりとつけています。多くは消極的否定的ですから、その名前を呼ばれるとショックを受けたり「傷ついた」と表現します。これは自分がつけた名札を他人に読み上げられた時に起きる現象で、多くの人は、自分でつけた名前に振り回されて生きています。
三、天の親がつけてくださった名前。この名前はただ一つ「高価で尊い」です。あなたが自分に対してどのようにお考えでも、神に造られた作品であり、神の栄光を表す存在であること。恵みから離れていた罪人の私たちが、イエス様によって、もう一度、祝福の席に買い戻されたのです。
多くの女性が結婚をすると名字が変わるように、イエス様と共に歩む生涯を、あなたの新しい名前で生きるのです。
この恵みを多くの人に語る今週でありますように……。 |
願望・目標・目的 (9月10日)
凡人は願望を持ち、賢人は目標を目ざし、偉人は明確な目的を持っている。
毎日の生活に張りがあるのは、願望、すなわち夢があるからです。犬の臭覚などは人間の何十倍、何百倍もあり、樹木などは数千年生きる木もあります。しかし、他の物と比べることのできない人間の特権は、人間だけが夢を見、将来を展望することができることです。日ごと自分の夢を点検していきたいものです。
単なる漠然とした夢は、一時しのぎにはなっても、人生の力となり得ません。ですから、賢人がしっかりと目標を持つように、短期、長期の目標を明確にし、計画を立て、実行していきたいものです。アメリカで成功した人を調べたところ、全体の3%の人が成功し、その人々は明確な目標を持って日を過ごしていた、との報告があります。
偉人は目的を持つと先に書きましたが、相対的な世界を超えたものを目ざして生きることを目的志向と言います。「学んで良き学校に入り、良き就職、給料を得る」という目標から、「人様のお役に立つために学ぶ」という明確な目的にシフトしていく時、どのようなプロセスをも乗り越え、あらゆる状況を宝に変える生き方ができるのです。
今週も願望・目標・目的を点検してまいりましょう。 |
心のお化粧 (9月17日)
お年を召しても若々しく、美しい方がおられます。そのような方は、お顔立ちが整っていらっしゃるというよりも、心の化粧をいつも怠らないからのようです。
「心のお化粧とは何ですか」と聞かれたら、あなたはどのようなことを挙げられますか。
まず何よりも、常に物事をよく考えることです。しかも、前向きに考えることです。心のお化粧を怠らない人は、試練や困難な時にも前向きに考え、その方向にしっかり目を向けて忍耐していらっしゃいます。
ですから、美しさの中心は目の輝きに他なりません。やはり、目はその人の心を映し出します。
若くても、生気がなく、目に輝きのない人がおられます。しかし、与えられた人生、どんな状況にも「なぜダメか」ではなく「どうしたらよくなるか」と考え、可能性に目を向けていくことです。
今は何も見えなくても、あなたがこの地上に命を与えられる前からあなたを知り、あなたの人生をデザインしてくださっている天のお父様に信頼し、祈り求め、力をいただいていくことです。必ず、あなたならではの輝きを見いだすことができます。
今週も、生活の中で、一歩一歩チャレンジしていきたいものです。 |
心の姿勢 (9月24日)
日本将棋連盟の会長をしている米長邦雄永世棋聖が、強くなる弟子の見極め方を、ご自身の著書で次のように書いています。
「プロ棋士を目ざす子どもたちを将棋盤の前に正座させ、詰め将棋などやらせてみたりする。するとたいていの子どもは足がしびれ、そのため上体がだんだん揺れてくる。その中で、正座したままピクリとも動かず、じっと考えている子、これが一番強くなる」と。
米長棋士自身、朝から晩までぶっ通し正座して将棋を指しても、一度も膝を崩したことがないそうです。しかし、法事の時などは、十五分ほどでしびれてしまうのです。その違いは「心がけ、集中度による」と書いておられます。
一人一人の人生においてその豊かさの条件は、立ち向かう姿勢にあると言えます。何事にも本気で向き合う時に道が開かれていくからです。そして本気の源は、どんな時も大丈夫、万事相働きて益となる、とおっしゃる神
様から祈りとみ言葉を通してエネルギーをいただくことです。
堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざ
に励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむ
だになることはないと、あなたがたは知っているから
である。(Ⅰコリント15・58) |
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