2024年4月の霊想

シモンとペテロ(4月7日)

キリストが選ばれた十二弟子の中にペテロがいます。彼の元の名はシモン。その意味はです。彼は強がってはいても、葦というその名の通りに風に揺らぎ、いざという時はブレたり、流されたりする姿を見せます。しかしイエス様はそれとは全く正反対のペテロ(岩)という名で彼を呼びました。イエス様は彼に、あなたは必ず確かな人物となる、という明確なビジョンを示され、彼の行くべき道を示してくださったのです。

改名の効能がポイントではありません。イエス様がペテロの弱さをそのままそっくり受け入れておられるからこそ、別名でお呼びになったと言えます。

私たちとて同様です。いたずらに自分の欠点や至らなさを嘆いてはいけません。キリストはあなたのあるがままの姿を受け入れ、あなたの罪の身代わりとして十字架につかれたからです。

この世にあっては無きに等しい自分ですが、私たちの欠点を受け入れ、素晴らしい存在として見てくださる御方が私たちを強めてくださることを忘れずに、今週も過ごしていきましょう。

「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」(第1コリント1:28)

神の力による継続(4月14日)

聖書の登場人物で神への信仰を貫いた人は、どこかで大きな挫折を味わっています。

アブラハムは神からの約束を信じ切れず、ハガルとの間にイシマエルをもうけました。モーセはヘブル民族を奴隷から解放する野望が40歳にして絶たれ、王宮から荒野の生活に追いやられました。ペテロは死んでもイエス様についていくと大見得を切りましたが、鶏が鳴く前に3度主を知らないと否定しました。パウロはクリスチャンを滅ぼすことが神の御心だと勘違いし、ダマスコ途上でその誤りに気づかされました。

こんな挫折を味わった後では、自分に絶望し、自分の中にその志を続ける力も動機も理由も見いだせなくなります。しかし、継続できない自分である、ということを認めるところから、神の力による継続が始まるのです。

アブラハムは100歳の時に、不妊の女サラとの間にイサクを得ます。モーセは80歳にして神の召命を受けます。ペテロは復活のイエス様から「私の羊を飼いなさい」と教会をゆだねられます。パウロはキリスト教の迫害者から伝道者となります。

できない自分である、と認めること。そこから神の力によって新たな人生が始まり、そこから先は神の力によって継続がなされるのです。今週も、神の力によってなされるわざを賛美して参りましょう。

やみも光も(4月21日)

Y兄はポジティブになれない自分に悩んでいました。この世で生きていくには、前向き積極的でなければならないと、あらゆるところから吹きこまれていたからです。しかし、ネガティブな考えの方が先に浮かぶという性格は変えようがなく、自己啓発の本を読んでみては挫折するという繰り返しでした。

このままではダメだ、とまた否定的考えに沈んでいた時、聖書の御言葉に目がとまりました。「あなたには、やみも光も異なることはありません。あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」(詩篇139:12-13)。彼の霊の目が開かれました。「そうか、私はこういう人間として、こういう生き方になるように造られたのか!」。今までダメだと思っていたところが、実は「やみも光も異なることはありません」とする神の創造の業だったのだと、彼は自分の人生の見方を変えるきっかけをつかみました。

Y兄は、ネガティブであるということは先にある危機が人より見えるということであり、トップでなく二番手でいるほうが安心な自分は、参謀役や補佐としての適性があるのだとわかってきました。彼は人に歩かされる人生を中止し、自分の賜物を知り活かすという、新たに自分の足でしっかりと地を踏みしめ歩く人生を始められました。

あなたを造られた神と共に今週も歩んで参りましょう。

祈りがかなわなくても(4月28日)

南アフリカ共和国を、悪名高き人種差別政策“アパルトヘイト”から解放したのが、ネルソン・マンデラ氏です。27年間の投獄生活を経験しながら、1994年、彼は大統領として選出され、ついにアパルトヘイトは撤廃されました。マンデラ氏の人生を見る時、事は一瞬にしては成らず、多くの出来事を経た後に成っていくことを知ります。

ダビデは祭司サムエルから油注がれ、王として任命されていました。しかし現実は、一気にその通りにはなりません。民衆のダビデに対する人気に嫉妬したサウル王から追われ、サウルの死後、ユダの王として迎えられますが、サウル王の残党との内戦が続きます。名実共にイスラエル全体の王となるのはまだ先のことでした。

私たちに対する神のお約束も、必ず実現します。しかし、その多くは一瞬にして成るのではなく、行きつ戻りつし、段階を踏んで、時には思いがけない形となって成就するのです。

Y姉は小学校の教師時代の昭和39年の新潟地震時、ビクともせずに生徒たちを誘導した堅い信仰の持ち主です。彼女はご主人の救いのためにずっと祈ってこられましたが、何十年もの間、その祈りは何の実も結ばない状態でした。しかし、時至って50年後、ご主人も洗礼を受けられ、ご一緒に礼拝に集われるようになりました。

今日の祈りが今日かなわなくても、落胆するのは早すぎます。神のみ業を待つ信仰生活を続けて参りましょう。

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