2024年3月の霊想

立ち上がって動き出す(3月3日)

もしあなたが「あの人、急に転職したんだよ」という話を聞いたなら、「きっと以前から問題を抱えながら仕事をしていたのだろう。ずっと我慢してきたのではないか」と察することでしょう。

実はマタイこそ、その人物でした。彼は取税人という経済的に恵まれた職を一瞬にして辞め、イエス・キリストの弟子として従っていきます。「『わたしに従ってきなさい』と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った」(マルコ2:14)。

彼の内面は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)の御言葉から推察できます。他の福音書記者が取り上げていない中で、マタイだけはこの言葉に反応しているのです。彼が心に重荷を持ち、休みを求めていたからこそです。

あなたが常日ごろ口に出している「ダメだ」「できない」という否定的言葉の背後には、命のガソリンが満々と蓄えられているのを認識しましょう。そこに火がつけば一気に爆発し、マタイのように立ち上がって動き出します。生きることに疲れを感じる時こそ、内なる命は次のステップを目指しているのだ、と思いを新たにし、キリストの命に生かされる日々を送って参りましょう。

石の心、肉の心(3月10日)

かつて生命保険業界では、「GNP」でガンガン営業をかけていました。Giri(義理)とNinjou(人情)とPresent(プレゼント)の3つです。しかし、バブル崩壊後のデフレ不況下では通用しません。現在は、「与えることで友人となり、お役に立つ関係の結果として契約をいただく」というスタイルが主流です。堅固な鎧兜を脱ぎ、人間らしい柔らかい心で相対する形に達したのです。

神はバビロンに捕囚されたイスラエルの民に、「石の心を取り去って、肉の心を与える。」(エゼキエル11:19)と約束されました。不従順な固い石の心ではなく、従順な柔らかい肉の心を神は与えるというのです。これは人間の修行によって到達する状態ではなく、「与える」という言葉が表す通り、神が創造して下さる心です。神の御心は、捨てられたと思われた捕囚の人々から新しい民を創り出すことでした。

神は一瞬にしてこの御業を成すことができますが、そうはなさいません。補囚となったイスラエルの民が、何十年もかけて異国での苦労と絶望の日々を過ごす中で、少しずつ創り上げていかれたのです。

私たちの「石の心」も同じです。実際の生活の様々なチャレンジを通る中で、神は柔らかい「肉の心」の持ち主へと私たちを変えて下さいます。自分の「石の心」を神に差し出す今週でありますように…。

死後の永遠の世界(3月17日)

かつて結核という病気が人に死の存在を見せつけた時代がありましたが、ついこの間までガンがその位置を占めていました。

昭和の時代、ガンは本人に告知されないままのケースが多かったようです。医師は患者に病名と状態を知らせる前、①明確な価値観や人生観、宗教観を持っている人か、②患者を支える家族や周囲の存在があるか、を探り、大丈夫だと判断した場合だけ告知するという、慎重な手順を踏んでいたそうです。「死」というものをいきなり目の前に出された時のショックは大きく、その後の治療の妨げになることを医師は避けたのです。

しかし、21世紀の今、ガンは告知されるのが当たり前の時代となりました。まずそれは医療技術の進歩によって生存の確率が高くなったからです。次に、死は伏せておくべきものではなく、誰にでもやって来るものだから堂々と話して良いのだ、と広く日本人の考え方が変わったからです。

このように変遷してきた日本の社会を見ると、これからの時代、人々の目は「死後の永遠の世界」に焦点が合わせられていくことでしょう。なぜなら「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3:11)からです。

死が身近に感じられる時とは、神との出会いのチャンスの時です。今週も大いに伝道に励んで参りましょう。

聞く祈り(3月24日)

「しもべは聞きます。主よ、お話しください。」(サムエル記上3:9)

祈る時はどんなことを神様に語っても良いのですが、祈りの最強の部分はこの「しもべは聞きます。主よ、お話しください」という「聞く」というところです。しかし、祈る時、私たちは自分の願いを神に言い、それだけで終わってしまうことが何と多いことでしょうか。

聖書の神は、そのひとり子をさえ惜しまずに与え、“罪の問題を解決したから、どうか私と仲直りをしてくれ”と懇願するほどの愛の神なのです。「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」(Ⅱコリント5 : 19)。その神が語ろうとすることに耳をふさいではいけません。

“自分の願いを述べたら祈りは終了。すぐ今日の生活に入る…”という祈りのパターンなら、今日を最後に「神様、私はそこから卒業しました」と言えるようにしましょう。祈りの最後に「聞く」という時間をじっくり取るのです。「しもべは聞きます。主よ、お話しください」と祈りの言葉を発した後の時間は、愛の神があなたの祈りに対して答えて下さる時間だからです。

今週も神の語る言葉に耳を澄まして参りましょう。

死は「終り」ではない(3月31日)

山形新幹線上りの終点は東京駅です。大宮を過ぎ、上野を出ると乗客は2種類に分かれます。「やれやれ、着いた」とのんびり車窓を眺める人と、荷物をまとめて降りる準備に急ぐ人です。東京駅で終りではなく、その先に次の列車と駅が待っている人は、客室での最後の時間の過ごし方がまるで違います。「死で人生は終りだ」と考える人の人生の終末の生き方と、「死の向こう側に次の新たな人生が待っているのだ」と考える人の生き方では、このように違ってくるのです。

かつてフジテレビに、国際派キャスターとして高い評価を受けた山川千秋という方がおられました。放送中、突然声が出なくなるというハプニングに襲われ、彼は食道ガンと告知されてから半年後に55歳の生涯を閉じました。この世的には、働き盛りでまだこれからという矢先の無念の死、という表現になるのでしょうが、クリスチャンの奥様の導きにより洗礼を受け、復活を知った後の山川氏の思いはそれとは全く違ったものとなっていました。それは、彼の死後、奥様との共著という形で出版された本の題名『死は「終り」ではない』に現れています。

人生は死で終りではなく、その先に永遠の世界があり、キリストの復活を信じる者は天国で祝福の時を過ごす希望が与えられています。

復活の朝があることを信じ、永遠の世界での生き方を意識するイースターとして参りましょう。

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