2024年6月の霊想

ゆるしの確信(6月2日)

警察庁の発表によると、令和5年中の交通事故による死者数は2678人です。平均して毎日約7人の方が亡くなっていることになります。さて、私たちは「今日その7人の中に入るかもしれない」と心配して夜も眠れない日々を送っているわけではありません。人はある一部分がクローズアップされて大きく見えたり、重要なことが全く目に入らなかったりするのです。

「しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」(マルコ3:29)。この聖書箇所を持ちだして、私は本当はゆるされていないのではないかと不安に思う人は少なからずおられます。まず第一に知らなければならないことは、聖書の中には罪のゆるしの約束の方が遥かに多くあることです。ですから、マルコ3章の御言葉は特殊なケースと考えるのが適切です。

ある社長さんが手術を受ける際、死亡例はないのかと医師に尋ねました。すると「10万件に1件の死亡例があります」との答え。彼は一瞬、手術をやめようかと思いましたが、すぐに思い直しました。99.999%の確率で死なないと計算できたからです。会社では社運を賭けた五分五分の確率の修羅場を何度も乗り切ってきた人だったので、50%に比べれば99.999%など成ったも同然と思えたのです。

神の基本的御心に目を向け、ゆるしの確信をいただく今週として参りましょう。

『大切な人とは』(6月9日)

北海道の「浦河べてるの家」でソーシャルワーカーとして活躍された向谷地生良(むかいやち いくよし)氏は、その著『精神障害と教会』(いのちのことば社)でこう述べておられます。「大切な人とは、私たちがもっとも受け入れにくいかたちで出会いが用意される」。教会でも一般社会でも、心に病を持つ人々に対して、初めは同情できても、その後、戸惑いどころか拒否感を持つからです。しかし、彼は、「よく考えると、その『つきあいにくさ』の半分以上は、『(理想とは正反対である)自分とのつきあいにくさ』ではないかと思う」と気づかされたと書いています。

コリント人への第一の手紙第13章は「愛の章」と言われる有名な箇所ですが、そのように生きていない自分を責めていると、向谷地氏の言うような「つきあいにくさ」を感じます。聖書のとおりに生きられない自分、神の御心を果たそうと思っても果たせない自分。その自分をいたわり、「それでいいんだよ」と受け入れることが、すなわち「自分を愛する」こととなります。ここに希望があるのです。

神はあなたにチャレンジとなる人を送りました。今までは、その人を愛そう、受け入れようとしてきました。しかし今日からは、その相手を愛せない自分を受け入れ、理想は語れるけれど行動は正反対で口ばっかりの自分のありのままを「そのままでいい」としっかりと受け止め、愛していくのです。この世界こそ愛が満ちる世界となります。

『弱さを知る人』(6月16日)

聖書の中でヨシュアくらい励まされた人はいません。そんなに彼は臆病者だったのでしょうか?いいえ、彼は勇敢な人だったので、カナンの地への最初の偵察の後、強そうな先住民がいたとしても、「神を信頼して進んで行きましょう」と提言しています。しかし、ヨシュアは自分の強さと共に、モーセと比較して遥かに劣る自分、そして神の前では無に等しい自分の弱さを正確に知っていた人でした。

神は自分の弱さを知る人々をお用いになります。

もしもヨシュアが自分の勇敢さだけを頼りにカナンの地に侵入し、成功を収めたら、彼は神を忘れたことでしょう。自分の力を誇り、自分の力に酔いしれ、エスカレートしていった先には、持っていたものまでも失うという破滅が待っています。

しかし、弱さを知る人々は常に神に頼ります。神はそこでご自分の力を表して下さいます。弱さを知る人々は自分を誇ることなく、神をほめたたえます。このようにして神の存在の確かさとその栄光が、弱さを知る人々を通して表されるのです。

あなたの弱さがあるがゆえに、神はあなたを選び、そして励まし、用いようとされます。「主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう」(申命記31:6)。この御言葉を胸に、今週も神の励ましを受け、進んで参りましょう。

神の前に沈黙せよ(6月23日)

「最近の生徒は授業中しゃべってばかりいる」と嘆く大人がいます。昭和の時代、授業は黙って先生の話を聞くものでしたが、自分の個性を主張するのが当たり前になった令和の時代はそうも行きません。

旧約時代、人々に強い調子で「黙れ!」と語った預言者がいます。それはゼパニヤです。王家の血筋を引く彼は、国のリーダーとなる層の人々が、真の神から離れて異教習慣に身を染めていくのを黙って見ているわけにはいきませんでした。「主なる神の前に沈黙せよ」(ゼパニヤ1:7)とは「あなたには語らせない」という意味の言葉です。神の前で語らせてもらえない時があるのです。それは、私たちが神からあまりにもそれているためであり、そこから引き戻し、御自身のもとに取り戻したいという神の強い愛の現れなのです。

理想を抱いて赴任した新任教師が壁にぶつかりました。丹念に忍耐を持って生徒を指導しますが、こちらの言うことは聞いてもらえません。あきらめの気持ちが湧いてきたり、対立を避けて平穏に進めたい自分の本音が見えてきます。そこで、あえて「黙れ!」と叱り、指導していくには、相当の愛の準備が必要であることを、彼は身をもって知らされています。

神の裁きの背後にはこの大いなる愛があることを忘れずに、今週の様々な出来事に取り組んで参りましょう。

信仰の自由(6月30日)

旧統一教会の問題から出た「宗教二世」という言葉は、クリスチャンホームの親にとって他人事ではありません。「家族に伝道すること」と「自由を尊重すること」と、バランスをどのようにとっていったら良いのでしょう。

キリストは誰にでもわかるたとえ話を通して神の真理を伝えましたが、その最後に「聞く耳のある者は聞くがよい」(マルコ4:9)と言っておられます。キリストの言葉を聞いて、その意味を正しく聞こうとする謙遜な「耳」があるかどうか、が各人に問われているのです。

イエス・キリストは決して「御心だからやりなさい」という信仰の押し売りはしません。聞いたことにどう応答していくか。従うか従わないか、聞かなかったことにしておくか、自分の生き方を考え直してみるか。人間には多種多様な選択が残されています。ただし、その自由意志による選択で人間の運命は決まる、と聖書は語っています。

聖書のメッセージはその人の責任と自由において聞かれ、その人の選択によって受け取られるべきものです。国家制度に組み込まれたり、宗教組織によって強要されたりするべきものではありません。相手が家族の場合も同様です。聖書の話が聞きやすい環境作りをし、祈りつつ神の働きを待つ態度が大切です。正しい信仰はその中において育っていくからです。

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