第三の道(1月16日)

仏教学者である安田理深氏の家が、隣家からのもらい火で全焼し、高価な専門蔵書や研究論文など、すべてが灰になりました。しかし、安田氏は隣人を恨むことをせず、宗教者として、「この時こそ、自分の宗教的本体が他に示される時である」と決意しました。

彼は、「「仏教を学び、仏教に生きる者が、隣家の人に腹を立てるのはおかしい」と思い、「焼かれた」のではなく、「自分が焼いた」と考えようとしました。しかし、「焼いた」と自分で背負うことは至難の業です。なぜなら、それは事実に反することだからです。

そこで、「焼かれた」のでも「焼いた」のでもなく、「焼けた」と彼は結論づけました。そのままを受け入れる、という仏教的な平安です。

クリスチャンの場合、人間が達し得るこの境地のさらに上に、神の恵みが注がれます。「焼けた」と手放したものは、実は自分のものではなく、創造主なる神の所有であったと知る時です。

「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」

(ヨブ記 第1章21節)

自分と相手との関係の中で、「焼かれた」のでも「焼いた」のでもなく、人格的神の存在があり、「すべて主にお返しした」と受け取る第三の道の祝福があるのです。

今週もこの神と共に歩んでまいりましょう。

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