ヨーロッパの古い教会の屋根には、十字架ではなく鶏があります。紀元9世紀、ローマ教皇が「鶏」を設置するようにとの命令を下したのが始まりです。ペテロの経験から多くを学ぶためです。
最後の晩餐の席、イエスはペテロに「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われました。ペテロは、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と反論します。彼には従い通すだけの自信がありました。その舌の根も乾かないうちに、三度も主を知らないと否定してしまったペテロ。
そのペテロの姿を、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのカメラはしっかりと捉えています。4つを見比べてみると、ペテロが立ったり座ったり、門の外でたじろぎ、勇気を奮って庭の真ん中に入ったかと思うと、すぐ逃げ出せるように門のところまで出て行きます。彼のソワソワ、ドキドキの挙動不審ぶりが映し出されています。
三度主を否定した時、夜明けに鶏が鳴きました。「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)とあります。そのまなざしは、ペテロを冷たく突き放し、責め、裁くのではなく、弱さも失敗も挫折もすべてを包み込み、赦し、生かし用いると語りかけるものでした。 (『苦しむときそこにある助け』横山幹雄著より)