1999年3月の霊想

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与えられた自分を生きる  (3月7日) 

賞賛を得ようとして無理なことをする人がいます。人に認めてもらわないと、自分の存在を感じることができないからです。そして、その時だけ良ければと、一瞬一瞬を楽しもうとする刹那的な生き方をします。
 仕事も、その場限り、その時さえ良ければという取り組みになります。このような人は、いつも自分をよく見せる必要があるため精一杯がんばり、身の丈以上のことをしなくてはいけない、という強迫観念に付きまとわれます。これは、人生をつらいものにします。
 子供にたとえると、愛に飢えて、大人が驚くような、実力以上の作品に挑戦します。このような子供は、いつも「すごい」と言われないと満足しません。まわりがその作品に飽き、子供の自慢だけが残ると、「子供らしくないね」と批判的な跳ね返りを受けることになります。しかし、身の丈を生き、目的を持っていると、必要以上に他人の目を意識しません。子供であれば、ほめられるためではなく、遊ぶという本来の目的に合う物を作り、それに工夫を凝らします。まわりは「何でも自分で作って楽しそうね」と、先の評価とは逆の現象が現れます。
 ヒルティは言いました。「賞賛を求めようと思わない人に対し、それを積み重ねることによって、神は与えるものである」。神があなたに与えた身の丈の人生を感謝をもって神と共に歩む、そこに真の満足があるのです。

倒されない理由  (3月14日) 

「転ぶことは恥ではない。転んだままでいることが恥ずかしいのだ」という言葉を聞き、その通りだなと思いました。ことわざに、『七転び八起き』という言葉がありますが、聖書にはこうあります。
「正しい者は七たび倒れても、また起きあがる、しかし、悪しき者は災によって滅びる」(箴言24:16)
 正しい者、それは信仰者のことです。クリスチャンとは、何度も何度も起きあがる人のことです。倒されても起き上がる力はどこから来るのでしょうか。
「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」(Ⅱコリント4・8~10)
 クリスチャンが倒されない理由は、キリストの死を負うているからだ、とパウロは言いました。キリストの死を負うているということは、とりもなおさず、キリストと共に復活できるということです。
 「私たちは、復活できる」、これほど大きな希望はありません。この希望があるので、私たちは立ち上がることができるのです。倒れることは恥ではない、倒れてもキリストを見上げていくことこそ、栄光であると思います。(K)

腹 の 底  (3月21日) 

腹の底から笑うことは、大変健康に良いことだそうです。最近、笑いについての本がよく売れる背景には、誰しも、腹の底から笑いたいのだが、それができない、という現実があると察することができます。
 「腹の底」、つまり、本音の部分に否定的な感情が蓄積されていたならば、とうてい腹の底から笑うことはできないでしょう。イエス・キリストは「愛とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4・24)と言われました。霊とは私たちの命を意味し、まこととは真実、本音という意味です。主は、神の前に、建て前抜きであなたの「腹の底」を注ぎなさい、と私たちを招いておられるのです。
 ある方が「先生、祈ることができません。どうしたらよいでしょうか」と質問されました。牧師は、「あなたは、すでにすばらしいお祈りをされておられますね。神様の前に祈ることができない、という真実にまさる祈りは他にないのです」と答えられたそうです。
 腹の底を割れない厳しい現実があるかもしれません。しかし、イエス・キリストはゴルゴダの十字架において自らの「腹の底」を割かれてくださいました。このキリストの、先行する愛のゆえに、私たちは、神との交わりの喜びの泉が、腹の底からあふれ流れるのです。(F)

受 難 週 に 寄 せ て  (3月28日)

主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。                (ヘブル2・18)

 今週は受難週です。世界中で、日本の人口の何十倍ものクリスチャンが、特別な思いをもって、この週を過ごします。ある人は断食、また、ある人は徹夜祈祷など、苦しみを担いつつ、カルバリの十字架を目差されたイエス・キリストを深く思います。
 イエス・キリストの十字架の中に、私たちの人生のすべての苦しみ、試練が凝縮されています。苦しみについての哲学ではなく、キリストご自身が十字架という実体を生きられたからこそ、すべての人の苦しみを理解し、共感するだけではなく、助けることができるのです。
 今週は、特にキリストの苦しみを覚え、各々に与えられた十字架をしっかり担っていきたいものです。それによって、この時代、証し人として最も必要な、痛みに共感し、人の苦しみがわかる、その実体が培われていくからです。
 つい、忙しく、無関心で時を過ごしやすい私たちですが、今週は、一日一日、特別な週であることを覚えてまいりましょう。

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