2000年3月の霊想

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  見よ、わたしは新しい事をなす3月5日)

 新しい年を迎えて心機一転しても、時が経つにつれ、ふと気がゆるむものです。
 今年の標語聖句を通して、神様は、あなたの人生が、たとえ砂漠のような、あるいは、荒野のような状況だとしても、「新しい事をなす」と、あなたに個人的に約束してくださいました。
 新しい事が、あなたの内にすでに始まっていますか。
 慣れっこになったり、古い習慣に戻ることはたやすいことです。だからこそ、今年与えられた聖句にいつも立ち返り、忘れずにいたいものです。
 宮内の佐藤さんご夫妻は、先日産まれたお子さんに、今年の標語聖句から、新(しん)君と命名されました。ご夫妻やご家族にとって、何よりも新君のこの地上の生涯において、み言葉が土台となり、いつもこの聖句が、泉のように新鮮に湧き上がってくることでしょう。
 私たちも、変わることのない神のみ言葉を人生の土台に据えて、今週も前進してまいりましょう。

 見よ、わたしは新しい事をなす。
 やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。
 わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。
                       (イザヤ43・19)

      (3月12日)

 人生の中で、健康を害する時、人間関係で行き詰まる時、経済的に苦しい時など、多くの試練の坂を上りきっていかなければなりません。これらの坂を上りきることのできる最も有力なエネルギーは、将来に確かな夢を描くことです。
 多くの場合、夢は、自分を成長させ、自分に利益をもたらすことから始まります。しかし、「自分」を考えるところから真の夢は生まれません。自分、「我」が基点ですから、どこまでいっても終わりがありません。
 夢は、社会を考え、世の中のことを思い、他者のために生きるところから始まります。他者が、世の中が何をしてくれるかということではなく、自分が外に向かって何ができるか、という問いから夢を描くことです。その時に、「受けるよりも与える方がさいわいである」(使徒20・35)の世界があなたのものになります。
 しかし、究極の真の夢は、神のみこころを生きる、すなわち、神様が願っていることに応えていくところにあります。与えられた状況の中で、神様からの夢、ビジョンに応えていく時、その結果はどんなに小さくても、真の喜びが湧き上がってきます。
 今週も、神様にある夢を祈り求め、与えられた夢を描きつつ歩んでまいりましょう。

  日本語にある宝  (3月19日)

 日本語にはあいまいな表現が多く、時に主語が欠け、結論が見えにくいとも言われます。
 しかし、驚くほど率直で明解に表現されることもあります。たとえば「そろそろ嫁さんをもらわなければ」と言います。誰かの嫁ではなく、他の娘さんが結婚して嫁になるのです。また、レストランで「私はうなぎ」と注文します。しかし、その人がうなぎではありません。このように途中のあれこれを省き、そのものになりきった表現は、私たちの生き方への励ましです。
 また日本語は、相手を慮るやさしさを内に含んでいます。たとえば、お店で、「○○はありますか」と尋ねると、「○○はございませんでした」と言われます。「ございません」が正しく、「ございませんでした」は間違いと考えられます。理屈では確かにそうですが、「ございません」と言われたお客は、あまりよい感じを持たないでしょう。「ございませんでした」の方がよい感じを持つのです。「当然○○を用意しておくべきでしたが、不注意で用意してございませんでした。申し訳ありません」というお店の人のお詫びが、この「でした」に表わされています。
 日本語の中にも、イエス様の十字架(犠牲の愛)が、このような形で隠されていることは、何とすばらしいことでしょうか。

  強 制 換 羽  (3月26日)

 物に乏しかったかつての日本では、「残さないで食べなさい」と言われました。しかし今は、「そんなに食べないで」と、肥満を気にしなければならないほど、豊かになっています。このように、状況も価値観も異なっている今、まったく新しい生き方が求められているようです。
 金魚や鯉を長く飼い、一度も死なせたことのない人にそのコツを伺うと、「餌を十分にやらないこと」と言われました。植物なども、素人などは、つい水をやりすぎて失敗することがあるのと同じようです。
 三六五日、卵を産み続けた鶏は、時間が経つにつれ、くたびれ、羽は汚れ、年寄りじみてきて、卵の産みも悪くなります。すると、鶏には水だけを与え、餌を一切断ち、死の寸前ギリギリまで続けます。そうすると、鶏の羽が抜け落ちて、丸裸になります。そこに、今度は、餌を新たに少しずつ与えると、新しい羽が生えてきます。やがて、鶏は元気を取り戻し、再び旺盛に卵を産み続けます。これを『強制換羽』と言うそうです。
 私たちの外なる人は滅びても、内なる人が日毎に新しくなるためには、鶏が餌を断ったように、この世のものから解放され、己に死に、キリストに生きることです。ここに、豊かな人生のコツがあります。

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