2005年7月の霊想
成長の秘訣 (7月3日)
Aさんは最近、家庭や職場、また教会でも、「著しい成長ですね」と評価を受けています。急激に変化なさった理由を尋ねると、ひとこと、「ディボーション」とおっしゃいました。
最初はディボーションをしたいとは思わず、ただ形ばかりで、やっても意味がないと何度も思ったそうです。しかし、自分で決めた「一日三十分」を、体調が良い時も悪い時も、多忙であればあるほどまず確保し、窓辺の机に聖書を置き、手順を踏んで始めたのです。そのように、一切の例外を許さず規則的に行った結果、今では、ディボーションなしでは生きられない、とおっしゃいます。祈り、み言葉に聞き、それを紙に書くという自分流のディボーションができあがったAさんは、「これが私の成長の源」と、日々の喜びの秘訣をお話しくださいました。
今、米沢興譲教会では、一人一人がしっかりと命の源泉に触れる、ディボーションのうねりが深く進行していることは、何とすばらしいことでしょう。あなたも、その恵みをさらに味わい、また他の人へとお分かちする、そのような勢いを増していきたいものです。
「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。
み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」
(エレミヤ15・16) |
人生の三つの要 (7月10日)
「主に感謝し、そのみ名を呼び、そのみわざをもろもろ
の民の中に知らせよ」(歴代志上第16章8節)
苦難の末、王となったダビデは、エルサレムに神の箱を運びました。すべてが神の恵みと導きであることを知っていたダビデは、その感謝の歌の中で、人生の要となった三つのことを語っています。
第一に感謝です。彼は順境の時ばかりでなく、苦境の時にも感謝を忘れませんでした。彼は、どんな出来事も主の御手の中で起こっていることであり、すべては益になると信じて、感謝を先取りする生き方をしました。
第二は御名を呼ぶ、つまり、祈ることです。ダビデに は優秀な部下がたくさんいましたが、一番の相談相手は神様でした。神様に願い、問い、訴える時、必ず神様は応えてくださいます。
第三は、御名を知らせること、つまり、味わった恵みを分かち合うことです。おいしいお店を見つけたら、友だちに教えるでしょう。すばらしい人にあったら、知人に紹介するでしょう。あなたも、神様から恵みをいただいたら、それを話したくなるのではないでしょうか。
人生の要は、感謝、祈り、そして、恵みを分かち合うことのようです。 |
蚊の注射針 (7月17日)
おとなになっても、注射が嫌いだ、と言う人が結構います。それは、注射が不快だから、というよりも、注射する時の痛みにあるようです。
しかし、糖尿病の方などは、一日に何度も注射し続けないと生きていけません。
そこで、その苦労を少しでも和らげたいと考えたAさんは、蚊に刺されても気づかないことから、蚊の針と同じ太さの注射針に挑戦しました。ところが、相談を受けた著名な物理学の教授は「理論的に言って、それは不可能だ」と断言したのです。
にもかかわらず、Aさんはひるむことなく挑戦し、ついに、針の穴の直径が80ミクロン、というミクロの世界でその製品化に成功。さらに、安価に量産できる体制まで作り上げました。
人生には知的には不可能と思われることがあります。しかし、人間に頼るのではなく、「蚊を造られた神は、私の必要に応え、針を作る手だてを授けてくださるはずである」と、全能の主に信頼することです。その時、主にあって可能への道が開かれるのです。
今週も、全能の主に信頼することをしっかりと心に刻んで歩んでまいりましょう。 |
本物を生きるために (7月24日)
ある著名な作家の奥さんが、ご主人の前で高価な三味線を弾かれました。演奏が終わり、ご主人に感想を聞いたところ、「ピンと張ったものがない、音に芯がない」と言われました。奥さんは大変びっくりして、「どうしてわかるの」と聞かれたそうです。なぜなら、その三味線は、本当は高価でも何でもない、普通の三味線だったからです。
本物とがん贋さく作(偽物)の違いを見分けるコツをご存じですか。時に、贋作の方がすばらしく思えることがありますが、ただ一つ、贋作に欠けているものがあるのです。それは、本物にある迫力です。実にうまくまとめられている贋作でも、そこに張り、すなわち、命が欠けているのです。
日々の生活も、本物に生きているのか、あるいは贋作で生きているのか、それを見分ける秘訣は、ピンと張られた人生の芯があるかないかに他なりません。
人生の芯を得るために、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)と言われたイエス・ キリストを、心の中にしっかりとお迎えすることです。それが、張りのある人生への、唯一で究極の道であることを、今週も覚えて歩んでまいりましょう。 |
正しい求め方 (7月31日)
夢がかなわない、物事が思い通りに進まない、という方がおられます。こうしてみたい、こうなりたい、と願 望は持っているのですが、抽象的で焦点が明確でないことが原因です。
いつか機会があったらこうしてみたい、という願いがかなうことは少ないものです。偶然にそのようなチャンスがあなたの目の前を通っても、そのような心構えではそれを見ることも感じることもできないからです。
キリストは、いやしを求めてくる人々に対して、「わたしに何をしてほしいのか」(ルカ18・41他)と尋ねられました。ご自分では相手の要求を知りつつも、そう問われたのです。自分の求めるものを明確に、定かにするためです。
「山に登りたい」ではなく「私は、何月何日、どこそこの山に登る」と決意し、そのことに向けて準備をし、立ち向かう、というように、明確な目標を持っている人にチャンスは惜しみなく投資するようです。
今週も、自分自身に語りかけ、何を望んでいるのかを明確にし、神様の前に大胆に求めてまいりましょう。
「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方
をせず、空を打つような拳闘はしない」
(Ⅰコリント9・26) |
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