2008年10月の霊想

  三つの鉄則  (10月5日)

 大晦日恒例の国民的な生番組、『紅白歌合戦』(NHK)。宮本隆治アナウンサーは、その紅白の総合司会を六年連続で担当なさいました。そのように長年務め上げるための心得は、「あわてず・はしゃがず・高ぶらず」だそうです。
 紅白のような大舞台に立つことはなくても、私たちにとっては、毎日が人生の〈舞台〉です。人生という舞台で、この三つの鉄則を私たち一人びとりが心する時、より豊かな人生へのステップとなるようです。
 しかし、何か事が起きるとすぐ慌てて、普通なら順当になす事に狂いが生じることがあります。また、うれしいことがあったりすると、思わずはしゃいでしまい、ほめられるとつい高ぶってしまうのが人の常です。
 では、どうすれば、この三つのポイントを自分のものにし、さらに豊かな人生を味わうことができるでしょうか。
 「その答えは…?」と、即答を求めたり、既製品的な答えを探し求めるのではなく、自らが、毎日の生活の中で、繰り返し繰り返し、考え抜くことがコツです。そして、自分流の人生観を身につけることが、一度限りの人生の舞台で、生き生きと、あなたならではの輝きを放ち続ける鍵です。

  人生の妙諦(みようてい)  (10月12日)

 その道を極めた方々から示唆に富んだ人生の妙諦(すぐれた真理)を得ることができます。
 六代目三遊亭圓生(えんしよう)師匠、五代目古今亭志ん生師匠は、戦後を代表する落語の大名人です。圓生師匠は落語協会の会長もなさった方でした。
 ある日、圓生師匠が「人生を確かに生きるコツは」と問われた時、即座に言いました。「芸人は下手も上手もなかりけり。行く先々の水に合わねば」。すなわち、自分の価値観、経験、癖など、つい出てしまいますが、その状況状況に合わせ、相手や周囲をおもんぱかって生きることが人生のコツと言われたのです。圓生師匠は噺家(はなしか)でしたが、すでに語るべきものがありつつも、心はしっかりとその日その時のお客様の状況に合わせて語られたゆえに人々に感動を与えたのでしょう。
 人生において、私たちが実り豊かに生きるコツがここにあるのではないでしょうか。
 何よりも、私たちクリスチャンにとっては、神であられたイエス・キリストが、私たちの立場に立つために、同じ人間の姿となり、この地上に来てくださいました。この神の愛に感じつつ、今週も「相手の立場に立つ」、すなわち、何事においても相手をおもんぱかる愛を基点として、日々、歩んでいきたいものです。

  目標と目的  (10月19日)

 顔に目が二つあるように、人生においても大切な二つの『目』があります。
 第一は目標、すなわち明確なゴールを持つことです。
物事を成し遂げるための重要な条件は、明確な目標をしっかり持って生きることです。あなたの健康、経済、学び等、各々の方面の目標をしっかり立てたいものです。
 目標があることはすばらしいことです。しかし、目標があっても二つ目の『目』、すなわち目的がなければ、目標が目的に変わってしまい、人生にストレスが増え、真の喜びに欠けてしまうのです。たとえば、「受験に合格する」という目標が目的そのものになってしまうと、入学後、学校にいる目的を失い、五月病になる人もいます。「結婚」という目標が目的になっても同様です。
 目標と目的の違い、それは、目標にはゴールがつきものですが、目的には「これでいい」というゴールがないことです。目的は、それゆえ、『永遠なるもの』と言うことができます。
 事をなす時、「何のために」という目的の所在を深め、自分の言葉で言えるように明確にさせて生きることが人生の秘訣です。
 あなたの人生の目標と目的は何ですか。揺るがない、永遠なる神と語り(祈り)、しばし熟考してみたいものです。

  人生は舞台あなたは名優目標と目的  (10月26日)

 「雑用が多くて」と言ってしまうことはありませんか。
 考えてみれば、この世の中に雑な働きはなく、働きを雑にする時に雑用となるのです。「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」(ルカ16・10)とあるように、どのような事でも、たとえ些事と思える事も心を込めて、ていねいに為したいものです。
 さらに「小さな役はない、小さな役者がいるだけだ」という名言もあります。わずかな端役でも、さり気なく、その場面に最もふさわしい、心に染みる演技をする名優がいらっしゃいます。
 人生は舞台であり、あなたはその舞台上の名優です。どのような役を与えられてもその役に徹し、全体に貢献するような生き方を心したいものです。なぜなら、『人生』というドラマ全体において、どの役も全体の一部で、すべての役は『人生』になくてはならないものであり、お互いにとってもかけがえのないものだからです。

    「そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに
     備えられたのである。…むしろ、からだのうちで他よ
     りも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、…
     神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに
     調和をお与えになったのである」
              (Ⅰコリント 12章18節、22節、24節)

-

© 2024 Yonezawa Kojo Church