2009年11月の霊想

  与えられた道を (11月1日)

  名優が、後進の話をじっと聞いていました。全力投球で演じたのに、辛口の批評を浴びて落ち込んでいたからです。ひとしきり話を聞いた後、名優は、自分もかつて同じ道を通ったこと、そこで「芸を磨いて、やがて批評家が恥じ入るような名演技をする」と誓い、精進してきたこと等を語りました。
 マリナーズのイチロー選手はメジャー通算2000本安打を達成し、内外から賞賛を浴びました。
 8年前、同じ敵地でのアスレチックス戦の折には、イチロー選手が出るたびにアイスクリームのカラなどが飛び、ヤジに満ちていました。しかし今は、敵味方が心一つ、スタンディングオベーション(総立ち)で祝福しているのです。インタビュアーの「偉大な記録ですね」との言葉に対し、「偉大かどうかは私が決めることではなく、皆様がお決めになることです」と答え、与えられた道を淡々と、謙虚に、そして、大胆に歩いていらっしゃいます。
 あなたの人生にも重い課題が与えられることがあるでしょう。しかし、み言葉に立ち、祈りつつ、その試練を凌いで余りある力を培い、前進してまいりましょう。
「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、 わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余 りがある」 (ローマ8・37)

  栄光から栄光へ  (11月8日)

NHK特集で、野球人生を送られた王貞治氏と長嶋茂雄氏、お二人のドキュメンタリーがありました。お二人は巨人軍の栄光の歴史を作った方です。
 引退後、お二人とも監督に就任しました。しかし、指揮した球団の成績は無惨にもかつての栄光とはほど遠く、長嶋氏はコンピューターをもじった『感ピューター』と揶揄(やゆ)され、王監督には「頼むから辞めてくれ」と横断幕が掲げられるなど、苦しみの時を経られました。
 しかし、かつての栄光を捨て、もう一度、基本からやり直し、やがて、セ・パ両リーグの勝利球団同士で日本一を決する球団の監督となられたのです。その時には、お二人とも、勝ち負けや野球という世界を越えた人生の達人となっておられたのです。
 人は誰でも、人生において一度は挫折を味わうものです。しかし、その時に決してあきらめないで、王氏と長嶋氏のように、与えられた自らの人生を活かしきることです。なぜなら、神を信じる者は、与えられた人生を全うできる秘訣を知っているからです。
 今週も、私たちの人生の確かさ、拠り所である神の言葉に立ち、み言葉を生活の隅々に活かしきる一週間でありたいものです。

  奇 跡 の 歌  (11月15日)

世界的に貴重な声質を持つ天才テノール歌手、ベー・チェチョル氏は、韓国人として、また、東洋人として初めて、ドイツの一流劇場、ザールランド州立劇場のソリストを務められました。
 しかしその絶頂期に甲状腺ガンを患い、手術を受け、医師から「再び歌うのは、片足で走るようなもの」と宣告されました。その宣告にもめげず、彼はリハビリを開始。地道な努力を続けました。その中で、声帯が十分機能していないことが判明し、友人の助けを得て、日本で声帯の手術を受けました。それでも「完全に前の声を取り戻すことはできない」と医師から言われました。
 甲状腺ガンの手術から三年。そのような状況を乗り越えて、とうとう、彼は再び舞台の上でプロとして歌うことができるようになったのです。今は、「神様は、一度取り上げ、もう一度与えてくださるという、キリスト者としての信仰の訓練を得た」と感動をもって語り、歌っておられます。
 「死んで生きる」の言葉の意味を尋ねられます。それは、人生を一度お返しし、もう一度生きていくこと以上に、「今、生かされている」という神に対する感謝人生を生きることです。この生き方こそが、日々感動する人生の源です。
 今週も、このことを思いめぐらしたいものです。

  感動の世界  (11月22日)

 俳優で最も著名なおひとりのA氏は、ご自分の長い人生で、自分の弟子や部下をほとんどほめたことがない、とおっしゃいました。「ほめると人は慢心するからだ」そうです。
 あなたは、ほめることについてどうお考えになりますか。
 ほめることも、叱ることも、共に大切なことです。問題は、何を、どこをほめるかです。
 「できた・できない」とか、その表面(doing)に、つい目を奪われがちです。人は、比較されたり、doingに目を向けられると、ごう慢になったり落ち込んだりします。
 しかし、できても、できなくても、その人の存在そのもの(being)をほめる、というよりも、承認することです。ここに秘訣があります。
 beingをほめるためには、社会も周りの状況も、誰一人、自分に目をかけてくれないとしても、「わたしはあなたを捨てて孤児とはしない」(ヨハネ14・18)とおっしゃっているキリストが今も共におられ、共に歩んでくださることを深く心に留めることです。キリストと共に歩むところから、ほめることにおいても、叱ることにおいても、相手が感動する世界を生きることができるのです。

  アドベント  (11月29日)

 今日からアドベント(待降節)に入ります。
 アドベントとは、「~に向かって接近する」というラテン語です。「冒険(adventure)」も同じ語源です。
 アドベントは「12月25日のクリスマスに向かう期間」という意味であると共に、「再び来られる(再臨の)主イエスを待つ」ことも意味します。心して待つことに思いを深くしたいものす。
 ところで、日本語の「松」はもともと「神々が降りてくるのを待つ木」が由来であることをご存じですか。そう言われてみると、お正月に門松を置いて神の到来を喜んで待つということや、伝統芸能の能舞台にも大きな松の木が描かれていますね。
 待つということ、すなわち耐え忍ぶということは、現代人にはとてもむずかしいことです。なぜなら、インターネット一つとってみても、ボタン一つで即時に世界を知ることができるような時代だからです。
 では、なぜ私たちは待つのでしょうか。待つことによって、大きな祝福を得るにふさわしい器が整えられるためです。
 今日からアドベント。この期間に、しっかりとみ言葉に立ち、祈りつつ、自らを、祝福をお入れする確かな器へと備えていきたいものです。

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