2012年4月の霊想

  十字架を負う  (4月1日)

 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。(ルカ14・27)
 進んで十字架を負うより、意に反して十字架を負わされた人の方が多いものです。試練・困難という十字架をどう背負って生きていくかで、結ぶ実が違ってきます。
 “筋ジストロフィー”という病を持つSさんが教会に来られた時、私はこうアドバイスしました。「心配事の9割は起きないと言います。起きたら大変だと思うことをここに書いてみませんか」。1年後、恐れていた9割が起きていました。ご家族は亡くなり、彼の病状は進行し…。この世の理論はただの気休めと証明され、私は言葉に詰まりました。
 25年が経ち、「神様がいるのならなぜ…」と思うような十字架を負わされた彼は、透徹した信仰へと導かれました。自分の病と命の限りを受け入れ、「イエス様の弟子として、困った人たちに元気をあげたい」と語る人となっていたのです。過酷な試練を通った人だけが持つ信仰です。
 負わされた十字架は、あなたが捨てさえしなければ、担いきれます。払うべき犠牲はあります。しかしその先に、人知を越えた豊かな実を結ぶ人生があるのです。
 負うべき十字架を素直に受け取る人生を歩んでまいりましょう

  イースターの朝  (4月8日)

  氾濫する情報、しなければならない物事が押し寄せてくる現実。現代人の最大の課題は、それらの動きがふと止まる空白、  このひとときが耐え難いものとなって襲ってくることです。その時、様々なもので埋めようとしたり、自分の嗜癖に逃避したりしますが、地上にはその空虚さを埋め、真に満足させるものは一つもありません。
  イエス・キリストは十字架につけられ、墓に葬られました。
 しかし、イースターの朝、墓は空(から)でした。弟子たちは何もない墓を見て、何度も聞かされていたキリストの言葉、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)を思い起こしたのです。
  言い知れない孤独、空虚さは、私たちがこの地上で生かされている間、大小、繰り返し体験するものです。その度ごとに、よみがえりの主イエス・キリストが、今、私と共に歩いておられることを告白し、感謝しましょう。虚しさは、また一歩前進するために神様から与えられた機会です。慣れない未知の世界を歩くことは不安ですが、だからこそ、いついかなる時も、神が共におられ、神の最善がなることを味わうのです。
  人生がいのちある日々へと変えられることが、イースターの真意です。この朝、この恵みを確認できたことを心から主に感謝しつつ……。

  人生の戦い方  (4月15日)

   身に覚えのない郵便不正事件で逮捕・起訴された元厚生労働省局長の村木厚子さんは、2010年9月に無罪が確定しました。164日間に及ぶ拘置所勾留・取り調べという極限状態の中、彼女は屈することなく、むしろその体験を大きく活かし、私たちに大きな励ましを送ってくださいました。
 そのエネルギーの秘密が著書に記されています。かつての職場時代、上司から次のように教えられたと言います。「村木さん、兵は敵を見ながら戦うんじゃないんだよ。上官の背中を見ながら戦うんだよ」。
 私たちは事が起きると、つい問題の方に目を向け、体を向け、心を奪われがちになります。それは当然のことです。しかし、そのような時にこそ、今年の標語聖句をしっかり覚えましょう。どのような時にも神様のご計画があること、下向きではなく神に向かって目を上げ、生活のただ中でみ言葉を血とし肉として生きることは何と大きな祝福でしょう。
 世の移り変わりはめまぐるしく、いつ何が起こるかわからない時代です。身の備え以上に、心の世界、神様との関係を、今週も強固に、確かなものにしていきましょう。

  悲しむ人と共に  (4月22日)

  
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
  彼らは慰められるであろう。(マタイ5・4)
 ここで言う「悲しんでいる」は特別な言葉です。英語の聖書では「mourn」を用いています。これは「喪に服する時の悲しみ」です。一般的な意味での悲しみではなく、「愛するものを失った時の悲しみ」です。つまり、人生最深の悲しみに沈んでいる人は何と幸いなことか、という驚くべき神の宣言であり、全く新しい価値観です。
 ではなぜ悲しんでいる人は幸いなのでしょうか?
 その理由は、次の「彼らは慰められる」にあります。「慰める」の原語はパラカレオーです。これは、「パラ(かたわらに)」+「カレオー(呼び寄せる)」という2つの語から成り立っています。またこの語には「慰め主(聖霊)」という意味もあります。すなわち、人間はこれ以上ないというほどの悲しみの中で初めて、神の霊(聖霊)に出会い、その慰めを味わうことができるのです。そしてその方は、この私をかたわらに呼び寄せて下さり、「これからずっと永遠に共にいるよ」と約束して下さるお方なのです。
 この尽きない慰めを得、この方がいつも共におられ、時に応じて励ましを与えて下さることを知る人は幸いな人です。
 慰め主と共に今週も歩んでまいりましょう。

  3つの挑戦  (4月29日)

 先日、あるスポーツチームから講演に招かれました。先方からいただいた講演題は『厳しさに挑戦』でした。
 改めて自分自身に置き換えてみると、好むと好まざるとにかかわらず、人生には、数多くの挑戦が待ち受けていることを思います。
 まず、自分自身の怠惰さに対する挑戦があります。ぼんやりしていると、「ムダ(無駄)、ムラ(斑)、ムリ(無理)」の『ダラリ』となりがちです。そのような自分を戒めつつも、決して叩くのではなく、自らをいつくしみ、励ましながら、今ある自分のできるところでチャレンジしてみましょう。
 さらに、時代の変化への挑戦です。十年前では考えることができなかったほどのスピードで時代が変わりつつあります。そのただ中で、時代の流れに巻き込まれ、流されるのではなく、何が大切かをしっかりと見極めたいものです。
 何より最も大切なことは、疑いに対する挑戦です。言い換えれば、神様への信仰強化・深化の挑戦です。この挑戦こそが「外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくなる」(Ⅱコリント4・16)という神様の祝福を受けていくマスターキーであることを、今週もしっかり覚えてまいりましょう。

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