2013年3月の霊想

  聖書の読み方  (3月10日)

 「聖書を読むのがとても楽しい《と言う方と「聖書を読むのはとても苦しい《と言う方がおられます。読むのが楽しい方は、聖書を自分流に解釈し、都合のいい読み方をしていないかを確認し、そのことに気づかされたなら、読み方を一歩前進させる良き機会です。
 意外と多いのは、聖書を読むのはやりがいがある、という方です。まじめな規範型の人に多いようです。例えば、「あなたがたも神のようになりなさい《と読むと、「人間が神になることが究極の目標だ《と考えてしまい、仏教では人が仏になるのが目標であるように、キリスト教でも人が神のように完全になることが目標だ、と誤解なさるのです。確かにそのように書いてはありますが、文脈全体を読むと、「人が神のようになれ《という意味ではなく「あなたがたも神のように愛ある人になりなさい《という意味です。神は「愛《そのものだからです。
 自分の位置や経験、知識から読むことも成長の段階として大切なステップですが、聖書をより正確に読むために、聖書全体を通して、また、聖書全体の目的に添って部分を読むことを心しましょう。すべて相働きて益となる聖書の恵みの世界を通して部分を読むと、そのみ言葉がやさしさであっても厳しさであっても、御心にかなった方向へとあなたを導きます。

  喜んで愛する愛  (3月10日)

 わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。
                              (ホセア14・4)  
 
 神の愛は『喜んで愛する愛』です。
 この聖句は神の愛の確かさを語っているのです。それは、人間の状態がどうあろうと、そのことによって神の愛は妨げられないということです。
 この保証のあるところ、神に背く者も安心して帰ってくることができます。「キリストを知らない《と三度否定したペテロがそうです。そのペテロに対してイエス・キリストがしたことは、振り向いて、ただ彼を見つめられたことだけでした。
 赦しの世界にあって、人は失敗した地点に再び帰ってくることができるのです。そして、そこから新たな歩みを始めることが可能になります。これに対し、人の落度を取り上げ、叱り、それで事足りた、とする世界では、自分が足を踏み外した場所を思い起こすだけで恐怖にとらわれ、「二度とそこに戻るものか《とますます自分を遠ざけてしまいます。
 一人の人が立ち直るためには、誰かが悲しみを担う必要があるのです。神の自由な愛、喜んで愛する愛の陰には、十字架で傷ついたキリストの御手があります。
 今週も主の愛の確かさに支えられてまいりましょう。

  方向を変えて歩く  (3月17日)

 「悪口を言うな、と聖書にありますが、なぜ悪口や愚痴を言うことは好ましくないのでしょうか?《とのご質問にお答えしましょう。  悪口を言っていると、「この人は、いつか私の悪口もどこかで言うかもしれない《と無意識に認識し、非難の対象となっている人や事柄を嫌悪する、というよりも、かえってあなた自身を遠ざけるようになります。
 悪口や愚痴を語ると、その人の思考そのものが否定の方向に向いたまま凍結してしまうのです。それは感情の発散ではなく、自分勝手な決めつけ、判断であり、自分の弱さを隠すための相手へのレッテル貼りです。
 聖霊様によって、「愚痴を語っている、非難しているな《と気づかされたら、すぐに悔い改め、180度方向を変え、影の部分から光へと見る方向を変えて歩き始めましょう。
 どんな時も感謝、何を見ても主の最善であることをしっかりと心し、それをあなたの生活習慣にしていきましょう。なぜなら、あなたも相手も神様の作品だからです。
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。《(エペソ2・10)

  苦難の僕(しもべ)  (3月24日)

  
 イザヤ書第53章は「苦難の僕《のメシア預言として有吊です。しかしあまりにもキリストの生涯と一致しているため、キリスト誕生以降の後代の加筆であろう、という説もありました。
 ところが、一九四七年、イスラエルの死海近辺の洞窟で多くの巻物が収められた壺が発見されました。驚くべき事に、それらは旧約聖書でした。いわゆる死海文書の発見です。科学的測定により間違いなく紀元前のものだと保証され、イザヤ書はキリスト誕生以前に書かれたものと証明されたのです。
 イザヤ書は、「キリストは、悲しみも病も侮辱も無視も、すべて身をもって体験され、その苦しみを知り尽くし、慰められることなく捨てられた。しかもそれは私たちの罪のためだった《と語ります。
「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの上義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。《(5節)
 私たちは罪責感を持つ必要はありません。キリストは自ら進んでその身に罪の刑罰を受けてくださったからです。ここにキリストの愛があります。その無条件の愛に報いるとは、私たちが平安を味わい、いやされた喜びの中で感謝を持って生きることです。

  信仰の守り  (3月31日)

  
  現代の大富豪と言われるウォーレン・バフェット氏は3兆円以上あると言われる資産の大部分を慈善の為に寄付するなど、尊敬されると共に話題の多い方です。また、様々なユニークな行動でも知られています。
  2000年から毎年、慈善団体への寄付を目的として、彼と個人的にランチをとる権利がチャリティー・オークションにかけられ、2012年の落札額が、何と約2億7千万円にも達しました。
  たった一回の彼との昼食に、このような価値を見いだすということはなんと驚くべきことでしょう。知遇を得る、あるいは、多くの知恵や知識をその間に得たいと願い、それだけの代価を支払っても余りあるからでしょう。
  私たちにもバフェット氏以上の方がおられることをご存じですか。しかも、その方は、昼食どころか、無料で絶えずあなたと共にいてくださるのです。それは、あなたを造られた神です。神は、あなたに知恵や平安を与えるばかりでなく、「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運  ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う《(イザヤ46:4)と約束してくださっています。
  この方が、これからも、御国に凱旋する時も、御国でも一緒にいてくださることを覚えていきたいものです。

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