2016年3月の霊想

  江戸の殉教者・原主水(もんど) (3月6日)

 徳川家光の時代、日本各地でキリシタンの大迫害があり、1629年1月、米沢のキリシタンが処刑されたことはご存じのことです。その少し前、1623年12月4日、江戸で50人のキリシタンが処刑されました。その中にヨハネ 原 主水(本名・胤信―たねのぶ)もいました。
先に一般信徒たちの刑が始まりました。信徒たちが火あぶりの刑で殉教していく中、原主水は後ろ手に縛られながら群衆に向かって「私は長い年月、追放でも何でも甘受して参った。私が極端な責苦にも耐えてきたのは、唯一キリストの救いが真理であることの証しを立てるためである。私は、私の贖い主であり、いつも共におられるイエス・キリスト様のために苦しみを受けて、今、命を捨てるのだ。イエス・キリスト様は、私に永遠の命をくださった。」と大声で証しをし、殉教しました。この壮烈な殉教に「なぜこれほどまで強い信仰を持てるのか」と、見る人すべてが非常に感嘆しました。その時、一人の大名が「予(よ)もまた彼らと同じく、キリシタンである。彼らと同じ運命に遭わせてもらいたい」と願い出るほどでした。(『日本切支丹宗門史・中』参照)

  人生の立ち位置(3月13日)

 お店に車で来られる方を駐車スペースに誘導したり、お客様をタクシーまで案内する仕事があります。それを30年以上している方が大切にしていることは、立ち位置です。店の入口と自分の肩が直角に交わるように立つことにより、店に出入りする人や車がすべて視界に入るようにしておられます。  人生も立ち位置で決まります。
聖書は、私たちが拠って立つべきところを教えています。

1.イエス・キリストによる救い
この人(イエス・キリスト)による以外に救いはない。)
(使徒4・12)

2.イエス・キリストによる神の愛
神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
(ローマ5・5)

3.イエス・キリストの恵みに立つ
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。(エペソ2・8)

神が私たちを愛し、救うために最大限のことをされたことは、旧約・新約時代を通して変わりません。この神の御業が私たちが立つべき位置です。  今週も、しっかりと霊の目で現実を見てまいりましょう。

  人生で初めての感動(3月20日)

 「エンディング・ノートのセミナーがある」と知らされた時、自分にはまだ先の事でもあり、関係ないと思っておりました。しかし、「これは、スターティング・ノートであり、ブレッシング(祝福)ノートです」と言い換えられ、今までの人生の振り返り、現在、そして、これからどのように在りたいかという、人間ドックならぬ、人生の良き整理であることを知り、参加させていただきました。
大勢の方々と一緒に学び、神の家族の分かち合いは大きな祝福でした。さらに感動したのは、第一に、自分自身のことなのに、このように改めて時間をとったことがなかったことに気づかされたことです。今までの人生、どれほど大きな祝福があり、現在は祝福のただ中にあること、さらに、これからの人生のために、したい事ではなく、しなければならない事の優先順位をつけることができたことです。一度参加すると、さらに継続して学びたくなる世界であるのは当然だと思いました。
あまりにも新鮮で、期待以上のこの感動を、どうしてもお伝えしたかったため、この欄をお借りしました。(教会員S・H)
次回は4月10日です。このセミナーにあなたもご参加なさいませんか。

  復活の関わり(3月27日)


イエス・キリストが復活した日、ふたりの弟子がエルサレムから約11キロ離れていたエマオという村に向かって歩いていました。
彼らは、エルサレムでイエスに起こったことが理解できず、悲しそうに互いに話していました。そこにイエスが近づいて来られ会話に入られたのです。弟子たちは、最初はその方がイエスだとは気づかず、「一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった」(ルカ24:30)とあります。
この出来事を通し、イエス・キリストは、

1.理解できないでいる者たちにも自ら近づいて来て下さる。

2.失望している状態でも、寄り添って共に歩んで下さる。

3.分からないことがあっても分かるように教えて下さる。

復活後のイエス・キリストの関わりを通し、弟子たちの心の内が燃やされました。彼らはすぐにエルサレムに戻り、他の弟子たちにそのことを証しするほどに変えられました。
今週も、復活され、どこまでも関わり続けてくださるイエス・キリストによって心燃やされて歩みましょう。

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