神のカーナビ(3月1日)初めて行く場所で車を運転する時、カーナビがあれば大変便利です。行き先を入力し、その音声案内に従って運転するだけで、目的地に到着することができます。 約束の地カナンに到達した後、イスラエルの民は、「おのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った」(士師記 17:6)とあります。自分の考えの方が素晴らしく見え、神の御言葉に耳を傾けなかったのです。神は道から逸れるイスラエルに“ 士師(しし)”と呼ばれるカリスマ的な指導者を送り、ちょうどカーナビがルート変更の音声案内をするように、正しい道へ戻して下さいました。 神様のカーナビの声が何度も心に響き渡った方はおられませんか?その都度無視しても、神は再びあなたに語りかけ、「元のルートに戻れ」と呼びかけられます。声を聞いた時が戻れるチャンスです。そこでもあえて神の声を無視し続けると、「この先しばらく道なりです」とアナウンスされ、そのままの人生が何年か続きます。しかし、神のカーナビは、あなたが音声をゼロに下げても背後で働き続け、どこかで「元に戻りなさい」と語りかけて下さるのです。戻れるチャンスは今です。「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル 3:15) 神のカーナビの声をキャッチし、その導きに従って歩む今週として参りましょう。 |
命輝く人生(3月8日)人生 100 年時代と言われるようになりました。100 年時代には、前半と後半、同じ時間があります。成人して 20 歳から 60 歳までの 40年が前半、そして 60 歳から 100 歳までの 40 年が後半です。かつてはほとんどの人が前半で人生を終え、後半の人生など考える必要もありませんでした。しかし、私たちは今までの日本人が経験しなかった後半の人生の生き方を模索しなければならなくなったのです。 限界のある命しかない世界では、この世が全てです。この世でいかに良い思いをするか、自分の能力を最高に発揮するかが人生の目的となり、そこが焦点となります。 しかし、キリストはその生き方に警告を発しています。「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ 8:36)。 キリストはこの世を全てとする生き方とは別の生き方を示してくださいました。「わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」(マルコ 8:35)。イエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じ、永遠の命を得た者は、今度はその命を失う方向、つまり自分のためでなく人のために生きる歩みへと招かれています。そうすれば、命を失うどころかそれを救い、永遠の命が輝き出す人生となるのです。 主の招きに応え、与えられた命を誰かのために使う人生を送ってまいりましょう。 |
祈ってゆだねる(3月15日)試練のただ中にいると、自分のこの苦しい状況を周りの人に察して欲しいと願います。これが、自分中心に物事を考え始める最初の段階です。もちろん人の助けを得て良いのですが、まず祈って神にゆだねることが先決です。すると、まさに神が備えた人との出会いがあるのです。 Aさんは相続の問題で悩んでいました。複数の不動産会社に頼んで土地の評価額を出してもらうことにしましたが、誰に頼むかでまた悩み始めました。「あそこに頼むと後でお礼をしなければならない。あちらとこちらはあまり関係が良くない同士なので、自分が頼んだと知れたら面倒だ...」。疲れ果てた彼は、とうとう神様に祈りました。「神様、あなたを忘れておりました。自分に有利に進めようとして、自己中心の考えで事を運ぼうとしていました。この土地はあなたのものです。全てあなたにゆだねます。御心のとおりになるよう導いて下さい」。 晴れ晴れとした気分になったAさんは、翌日、重い荷物を持って難儀している人を助けて、代わりに運んであげました。両手いっぱいに荷物を抱え、自動ドアが開いた向こうから、「おや、Aさんじゃないか」という声が聞こえてきました。何とその人がAさんの問題に最適の答を持っている人だったのです。 困った時は神様にゆだね、そして同じように困っている人を助けることです。神はその人に道を開き、導きの確信を与えて下さいます。 |
闇の時を備える神(3月22日)映画界の巨匠、黒澤明監督はタレントの所ジョージさんが大のお気に入りで、撮影の休憩中に彼をそばに呼び、「いいかい、所くん、冬のシーンは夏に、夏のシーンは冬に撮るんだよ」と頼みもしないのに教えてくれたそうです。所さんが「なんでですか?」と問うと、監督はこう言いました。「冬には夏を、夏には冬をスタッフが一生懸命表現しようとする。そうじゃないとお客さんに伝わらない」。まさしく名言です。闇の中だからこそ光の存在が一層意識されるのです。 キリストの福音が身にしみてわかるのは、人生の闇の時です。闇が深ければ深いほど、光はさらにまばゆく感じられます。全人類の罪に対して向けられた神の怒りが全て注ぎ込まれたのが十字架です。私たち人間が犯した罪の支払いは、二千年前のキリストの十字架で全て支払われました。そして、その事実を信じる者にとって、死はもはや決定的な意味を持たなくなりました。この光の中を歩ませていただく人生こそ平安に満ちた人生です。光のまぶしさを味わうために、神はあえて人生の闇の時を備え、そこを人に通らせられるのかも知れません。 全て私たちの周りで起こっていることは、神の愛ゆえに起きていることです。闇さえも、神が備えたもう十字架の恵みにたどり着くための手段であることに目を開いて参りましょう。 |
キリストにある希望(3月29日)主の祈りと共に教会でよく唱えられるのは使徒信条です。この中に、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり」という一節があります。「陰府(よみ)」という、愛の神とは縁のない死後の世界にキリストは下り、そこからよみがえられた、という信仰の告白です。旧約聖書のヨブ記にはこの福音の予表が見えます。 ヨブは希望のない苦しみの中で死を願います。神から来る苦難であれば、神とは縁のない陰府に住まいを移したい、という表現でそれを述べています。ところが、やはりそこにも希望は見いだせないことを、「わたしの望みはどこにあるか」(ヨブ記 17:15)と嘆きます。 しかし私たち新約の時代に生きる者は、復活のイエス・キリストを知っています。この世にも死後の陰府にも希望はないと語ったヨブに対し、この世も陰府も歩かれ、死を征服し、その全てに対し勝利を得られた主イエス・キリストがおられるのです。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(第一コリント 15:55)。実にヨブの絶望は、キリストにあって希望と変えられるのです。 受難週のこの時、キリストと共に苦難を耐え忍んでいる方もおられるでしょう。復活の朝、その全てに勝利と意味が与えられたことを思い、新たな希望を持って参りましょう。 |
2026年3月の霊想
