知識のはじめ(8月2日)昔の日本では、お葬式は寺や自宅で行うのが一般的でした。そのような時代、キリスト教式の葬儀をスムーズに進めるためには、親族の中で誰が最も影響力を持つ「キーパーソン」かを見極めることが不可欠でした。その人物こそが、集まった人たちを動かす力を持っているからです。 では、私たちにとってのキーパーソンとは誰でしょうか? それは主なる神です。旧約聖書の知恵の言葉、箴言の冒頭には、「主を恐れることは知識のはじめである」(箴言 1:7)と記されています。ただしこれは「いつバチが当たるか... 」とビクビクしながら生きることではなく、主である神に対して畏敬の念を抱き、一歩も二歩も下がって謙虚な気持ちで接するということです。 それはちょうど、スポーツで審判に目をとめることと同じです。試合中、全体を支配し、決定権を持っているのは、監督でも観衆でもなく、審判です。審判は、観衆のその場限りのヤジで動かされることはありません。したがって、真に力を持つ者が誰かを見極めてプレーする選手こそが、賢い選手と言えます。 主を恐れることは知識のはじめです。私たちの人生にも真の審判者がおられることに気づき、その御方に目を留め、知恵にあふれる人生を送ってまいりましょう。 |
本物の命(8月9日)本日は召天者記念礼拝です。愛する人とのお別れは、私たちに深い悲しみと喪失感をもたらします。しかし、イエス・キリストの十字架と復活によって、死の力はすでに打ち砕かれました。「死は勝利にのまれてしまった」(第 1 コリント 15:55)のです。私たちにとって、死はもはや絶望の終着点ではありません。それは永遠の命への扉であり、愛する人との再会を待つ希望の入り口です。この揺るぎない復活の確信があるからこそ、私たちはこの地上で「本物の命」を生きることができるのです。 Y姉はその一人でした。末期がんの宣告を受けた彼女の入院中、多くの方々がお見舞いに訪れました。ところが、慰めに行ったはずの人が逆に慰められ、祈りに行ったはずの人が逆に「お祈りしてます」と励まされて病室を後にしたのです。彼女の内に本物の命があったからです。たとえ体は病み、衰えても、イエス様によって罪ゆるされ、永遠の命をいただき、天国を目指して一歩々々歩いている、という確信はいささかも揺るぎませんでした。その確かさ、命、神の平安という本物に引きつけられ、天に召されるその時まで、人々は彼女のもとに駆け集まってきたのです。 主にあって私たちの歩みが無駄になることは決してありません。やがて天の御国で迎える再会の朝を待ち望みながら、「本物の命」を、主と共に力強く生き抜いてまいりましょう。 |
永遠の命の価値(8月16日)「もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい」(マルコ 9:43) その昔、とてもまじめな人が初めて教会の礼拝に出席しました。ところが間もなく、激怒して出て行ってしまいました。「みんな、目も手も足も揃っているではないか!」と。この人は今日の聖句を事前に読んでいて、「教会は手足のない人ばかりがいるはずだ」と思い込んでいたため、ここは偽善者の集まりだと思ったのです。さて、私たちはこのイエス様の激しい言葉をどう受け止めるべきなのでしょうか。 弟子とは、自ら訓練を求めて入門してくる者たちですから、イエス様は厳しいことを語ります。聖書は書かれてある通りに読むことが基本ですが、中には比喩的表現もあります。体の一部を切り捨ててでも罪を避けよというこの恐ろしいほどの命令は、罪というものがもたらす滅びの深刻さを示すと同時に、悔い改めて神の国に入り、永遠の命に生きることが、どんなに尊いことであるかを伝えているのです。 今持っている財産やこの世のものがどんなに高価に見えたとしても、それが色あせてしまうほど、永遠の命には絶大な価値があります。その恵みの大きさを、今一度心に深く刻み直して歩む一週間としてまいりましょう。 |
神を待ち望む(8月23日)クリスチャン生活を3種類の鳥にたとえてみましょう。ニワトリとツバメとワシです。 ニワトリは飛べませんが、地面を歩き回り、確実に餌を取り、まさしく地に足のついた生活をします。これは、日々聖書を読み、御言葉を霊の糧とし、祈りを通して必要な恵みを得る堅実な信仰生活を象徴しています。 ツバメは歩いているところを見たことがありませんが、ひとたび空に飛び出せば、自由自在に宙を舞います。これは、神から与えられた賜物を豊かに生かして賛美し、神の栄光を表現する姿に重なります。 さて、ワシの場合は、足を動かすことも、せわしなく羽ばたくこともせず、翼を広げたまま悠然と大空を滑空します。つまり、自らの力で動くのではなく、ただ主の前に静まり、神にゆだねる時を持つのです。 「主の救を静かに待ち望むことは、良いことである」(哀歌3:26)。 これは、ニワトリやツバメのような能動的な姿勢とは異なる、受動的な姿勢です。自分から動いてつかみ取っていくのではなく、ただ神から与えられるのを待つひとときと言えます。静かに神を待ち望む。このワシのような在り方があってこそ、私たちは神の力によって、大空を高く飛び続けることができるのです。 今週も、主の救いを静かに待ち望む時を大切にしていきましょう。 |
信仰義認(8月30日)「信仰義認(しんこうぎにん)」という言葉は、教会で聖書を学ぶ時、どこかで耳にするキリスト教用語です。それは、「救い主イエス・キリストの義のゆえに、罪人が無罪とされ、神の子としての身分と、神の前に正しい者とされる特権が与えられること」を意味します。 この恵みを理解するために、あなたが被告人として法廷に立っている情景を思い浮かべてください。あなたは自らの罪を深く自覚しており、「間違いなく有罪判決を受けるだろう」と覚悟しているとします。ところが、裁判長が下した判決は「無罪」です。驚いてその理由を尋ねると、なんと自分の代わりに罪の代償をすべて支払ってくれた方が現れ、あなたの罪の記録は完全に消し去られたというのです。 「でも、私はまだそんなにまじめになっていませんし、償いのために良い事は何もしていません」とあなたが訴えたとしても、裁判長は毅然としてこう答えます。「代価を支払ったのは、イエス・キリストです。あなたは何もしていませんが、その立場は罪人から義人へと完全に変わりました。もはやあなたに罪は認められません。この法廷から出て、自由な者として生きなさい」と。 この判決を尊重し、本当にそうなったのだと信じて生きることが、「信仰義認」という福音に根ざした人生です。その恵みを確認し、今週、また新たに歩みを進めてまいりましょう。 |
2026年8月の霊想
