2026年7月の霊想

頭を下げる(7月5日)

ある時、教会で少年が問題を起こしました。お父さんが謝罪に来られ、息子に頭を下げさせようとしました。息子は「申し訳ありませんでした」と口では言うものの、手をついて頭を下げる動作ができず、固まったままです。あわてたお父さんが息子の頭を押さえつけましたが、それでも下がりません。自分は悪くないと思っている本音が丸見えで、周囲は苦笑する他ありませんでした。

これとは反対に、自分は悪くないのに、なぜ私が頭を下げなければならないのかと憤慨する時が人生にはあります。自分がしたことでなくても詫びなければならない理不尽さ。しかし、その経験を通して初めて、全く罪がないのに私たちのために自らへりくだり、不条理な苦しみを受けてくださったキリストの姿が深く意識されるのです。十字架はこのためだったのかと、心身で実感できるのがその時です。神のきよさにあずかり、キリストに似た者とされるとは、このような訓練を通して成されるものです。

神の御前では、私たち自身があの少年のように「絶対に頭を下げられない」頑固な罪人です。そのような私たちのためにキリストが代わりに御前で頭を下げられ、罪の全てを引き受けて十字架について下さいました。その方とくびきを共にし、聖なる者となる訓練を受けつつ生きるのがクリスチャンの人生です。今週も、この歩みを続けて参りましょう。

主が賜る地(7月12日)

ある南の島に靴のセールスマンが 2 人やって来ました。島の住民はみんな裸足です。一人はその日のうちに会社にこう連絡しました。「社長、ここは絶望的です。誰も靴を履いていません」。ところが、もう一人はこう連絡したのです。「社長、ここは大変有望なマーケットです。まだ誰も靴を履いていません!」。

物事には肯定的な側面と否定的な側面があり、どちらの事実を見るかで私たちの将来は大きく変わります。

かつてイスラエルの民も、カナンの地に入る最初の機会にこの選択を迫られました。彼らは神がなしてくださった数々の恵みを忘れ、目の前の困難ばかりを見て、「エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」(民数記 14 章 3 節)と叫び出しました。その不信仰ゆえに、彼らはその後 38 年間も荒野での訓練の生活を送ることになります。モーセは申命記 1 章でそのことを思い出させ、再び同じ過ちを繰り返さないよう、神を信頼して進みなさいと語っているのです。「われわれの神、主が賜わる地は良い地です」(申命記 1 章 25 節)。

恐れや不安から、人生のブレーキを必要以上にかけている方はいらっしゃいませんか? ブレーキは、前へ進むためのアクセルを踏んでこそ意味を持つものです。神の助けを信じて信仰のアクセルを踏み出し、肯定的な事実に目を向け、『われわれの神、主が賜わる地は良い地です』と口ずさむ一週間としてまいりましょう。

水一杯(7月19日)

「だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう」(マルコ9章41節)

この聖句を読んで、「クリスチャンに会った時には、水一杯を差し上げればいいのだな」と受け取っては、本当の意味をつかみ損ねてしまいます。ここで語られているのは、「水一杯というほんのわずかな行為でも覚えて報いて下さるのが神である」という真理です。そして、「それ以上の善い行いには、さらに大きな報いを与えてくださる」と教えているのです。

もし、この箇所を自分の得のために利用しようとする人がいればどうなるでしょう。その人は打算的に善行を積み、結果として人の好感を得て、経済的にも社会的にも繁栄するかもしれません。しかし、この聖句が本来意図するのは、自分の特になるように神から報いを引き出そうとする考え方とは大きく異なります。

神様はどんな小さなことでも覚えて報いてくださるのだから、その神の報いに目を留め、人からの反応は気にするな、ということです。それが「あんなにしてあげたのに」と、古くから人類を悩ましてきた「忘恩」という不幸なからくりから私たちを解放してくれます。

人からの見返りではなく、神からの報いにのみ目を注ぎ、霊的に養われる一週間としてまいりましょう。

主は待っていて(7月26日)

「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される」(イザヤ 30 章 18 節)

イザヤの時代のイスラエルの民は、どんな良いことをしたので神様から祝福をいただいたのでしょう?

私たちの想像とは全く違い、その当時のイスラエルは、神に頼るよりもエジプトのパロを頼り、その軍事的保護のもとにいることを選びました。イスラエルは神を捨てて自分が選んだ道を行ったのですから、その先に悲惨な未来があっても自業自得というものです。したがって、「それゆえ」に続く言葉は、神のさばきの宣言となるはずです。

ところが、「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される」と神は言われています。自分の行く末もわからず、警告も聞かずに破滅を刈り取る民であるからこそ、「それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる」(イザヤ 30 章 18 節)のです。

新約聖書の放蕩息子のたとえ話に現れる父親の姿。その愛こそが神の本質です。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した」(ルカ 15 章 20 節)

神はゆるしの神であり、愛の神です。この方の深い愛を信じて、私たちも主を待ち望む生活を続けて参りましょう。

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