十字架を負う(1月15日)

「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ 14:27)

十字架を進んで負う人は少ないものです。むしろ、自分の意に反して十字架を負わされた人の方が多いのです。逆に言えば、そのような人こそキリストの弟子となる道が開かれた人です。

25 年前、教会に筋ジストロフィーの青年が来られました。困難な状況や将来への大きな不安を持つ彼に、私は「恐れていることの9 割は起きないと言いますよ」と、この世の理論で慰めようとしました。しかし、それは単なる気休めとしかなりませんでした。

25 年経ち、「神様がいるのならなぜ...」と思うような十字架を負わされた彼は、透徹した信仰へと導かれました。自分の病と命の限りを受け入れ、誰をも恨むことなく、ただ「イエス様の弟子として、困った人たちに元気をあげたい」と語る人となっていたのです。「神も仏もあるものか」と思えるような試練を通った人だけが持つ信仰です。

負わされた十字架は、あなたが捨てさえしなければ負いきれます。もちろん犠牲は払います。しかし、その先に、あなたが思いもよらない実を結んでいる人生があることを、忘れてはいけません。

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