「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される」(イザヤ 30 章 18 節)
イザヤの時代のイスラエルの民は、どんな良いことをしたので神様から祝福をいただいたのでしょう?
私たちの想像とは全く違い、その当時のイスラエルは、神に頼るよりもエジプトのパロを頼り、その軍事的保護のもとにいることを選びました。イスラエルは神を捨てて自分が選んだ道を行ったのですから、その先に悲惨な未来があっても自業自得というものです。したがって、「それゆえ」に続く言葉は、神のさばきの宣言となるはずです。
ところが、「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される」と神は言われています。自分の行く末もわからず、警告も聞かずに破滅を刈り取る民であるからこそ、「それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる」(イザヤ 30 章 18 節)のです。
新約聖書の放蕩息子のたとえ話に現れる父親の姿。その愛こそが神の本質です。「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した」(ルカ 15 章 20 節)
神はゆるしの神であり、愛の神です。この方の深い愛を信じて、私たちも主を待ち望む生活を続けて参りましょう。
