2002年3月の霊想

  失われた自分を尋ねて (3月3日)

 私たちは、時として、自分が未熟で不十分な人間であることに失望し、他の人にも、「自分は本当にだめな人間だ」と語らずにおれないことがあります。しかし、多くの場合、そのように語ることによって、相手から「そんなことない。大丈夫だよ」とエネルギーをもらうゲーム(からくり)に陥るのです。これはちょうど、すり減ったねじをいくら回しても食い込まないように、何年経っても変わらず、かえって甘えの体質を増強することになります。
 自分は80点だと思っていたのに、ある出来事を通して自分が40点であることを知らされると失望し、「私なんか40点だ」と嘆きます。ところが、真の実力は10点で、「あなた、本当は10点じゃないの」と言われると、生きる気力が失せそうになります。
 しかし、人生において、真の成長とは、本当の自分に気がつくところから始まります。
 イエス様と出会うとは、失われた自分を尋ねだしてくださるイエス様に、本当の自分を見いだしていただくことです。そのように、いつも、自分の本音に来て、いのちをもって希望に満たしてくださるイエス様と共に歩む人生が、生き生きしたクリスチャン人生です。
 今週も、心してまいりましょう。

  むずかしいことをやさしく  (3月10日)

物事を表現するのに、4種類あります。
 やさしいことをやさしく表現する。むずかしいことをむずかしく表現する。何よりも困るのは、やさしいことを、ついむずかしく表現してしまうことです。しかし、最も良き表現方法は、あなたが日常用いておられるように、どんなむずかしいことも極めてやさしく表現し、相手に確実にお伝えすることのようです。
 やさしいことを、なぜ、むずかしく伝えてしまうのでしょうか。それは、自分で良く理解し、自分の血や肉としていないからです。つまり、借り物ということになります。しかし、むずかしいこともやさしく表現できるのは、それを、あなたの生活で、あなたの言葉で、存分に用いておられるからです。
 伝道すること、福音を語ることは、あなたにとってむずかしいことですか、それとも、やさしいことですか。伝道は、たくさんの勉強をすることも必要ですが、何よりも大切なことは、神を信じ、神と共に歩む信仰を生活の中で体感・体験していくことです。そのような人は、多くを語らなくても、そこに存在するだけで、神にある平安、喜び、希望が、相手の内に伝わっていくのです。
 このような歩みを、今週も目ざしてまいりましょう。

  最高の姿 (3月17日)

 「罪の増すところには恩惠も彌増せり」
           (ローマ5・20 文語訳)
 ほの暗い時には見えなくても、明るみの前では、小さな汚れもよく目につきます。同じように、神様の恵みの前に立つと、自我の強さ、本音の弱さ、汚れを示されます。
 しかし聖書は、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」と語ります。私たちの不十分さが主にあって恵みに変えられ、それが大きければ大きいほど、恵みも大きいことを覚えていきたいものです。
 広隆寺の弥勒菩薩を見たドイツの哲学者、カール・ヤスパースは、「この菩薩の姿こそ、人間が達し得る最高の姿」と言いました。その後に、「しかし、罪ある人でなければ、このような最高の姿、顔にはなれない」と言いました。アメリカでも、名裁判官と言われる人たちの中には、前科者が多いと言われます。自らの罪の深さゆえに、過ちを犯した人に対する気持ちの深みが、他の裁判官と異なるのでしょうか。
 私たちも、イエス・キリストの恵みの中で、日々悔い改め、栄光から栄光へと変えられていきたいものです。そして、キリストの恵み、ゆるしのぬくもりを体現する者として、今週も歩んでまいりましょう。

  四つの恵み (3月24日)

 日本語の「罪」は、「四つ」に「非ず」と書きます。罪から解放されると、どのような四つの恵みがあらわれるのでしょうか
 四を日本語では「シ」とも発音しますが、罪は「師、志、詩、死」の四つの恵みに変えられるようです。
 罪とは、自分を主人公としている状態をさします。その罪の状態から、天のお父様を主(師)と仰ぐ時に主客が変わり、サタンに従っていた人生から、神の言葉、神の命に養われていく人生に変えられていきます。
 師が明確になると、第二番目の「

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