2006年7月の霊想

  幸せの源 (7月2日)

 一時間の幸福がほしいなら昼寝をすることです。ある人は床屋さんに行くこと、とも言います。ひとときの幸せ、それも生活の中で必要なことです。
 一日の幸福がほしいなら、釣りに行きなさい。ゴルフでも良し、読書でも良し、良き趣味を持つことは、人生の豊かさにつながります。
 一ヶ月の幸福がほしいなら結婚しなさい。「え?」と思われる方もいるでしょう。「一ヶ月も持ったらすばらしい」と言う方もいるでしょう。「何と消極的な」と言う人もいるでしょう。それはあなたが決める答えです。
 一年の幸福がほしいなら財産を貯えなさい。勤勉であること、そして、この地上に生きるために、知識や健康や財産は、あなたの大きな助けになることでしょう。
 一生の幸福がほしいなら……、さて、あなたは何と続けてお書きになりますか。その通りです。罪悔い改め、神を信じ、主と共に歩むことです。それは、人生のどんな一コマでも、大きな神の祝福を味わうことのできる秘訣ですから。

     「あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、あなたの大
      庭に住む人はさいわいである。われらはあなたの家、
      あなたの聖なる宮の恵みによって飽くことができる」
                               (詩篇65・4

  米沢興譲教会の使命 (7月9日)

 近所では「真面目でやさしい子」と評判が良く、学校でも「友だちも多く、明るい性格」という、医学部志望で、剣道も二段の腕前の高一の彼が、なぜ、家に火をつけ、母親と二人の弟妹を死に巻き込んだのか……。
 父親に学業成績を非難され、うっぷんがたまり、犯行に及んだと言います。朝日新聞の社説では、この事件を受け、『逃げ場はなかったのか』とのタイトルで、「このような状況で親類でも、友だちでも、どこか、逃げ場があれば、親に対する見方も変わり、事件も避けられたのではないかと悔やまれる」と記していました。
 今日こそ、教会の使命が、また、その働きの重大さが問われています。
 米沢興譲教会は、このような時代の心の逃げ場、休み場、いやしの場として用いられております。しかし、この事件を思う時に、私たちの働きがさらに拡大されることが期待されており、この時代に対する使命の大きさを思わされます。
 教会のひと枝として、あなたご自身が、日々の生活の中で試練に出会う時、そのただ中で、神様からのぬくもり、いやしをいただきつつ歩むことが、すべての始まりです。
 今週も、祈りつつ、恵まれてまいりましょう。

  信仰のひと足 (7月16日)

 東京ゴスペルハウスの礼拝には、様々な犠牲を払ってお出でくださっている方が多くおられます。
 「どうしても礼拝に行きたい!」―心配される奥様を後にして自宅を出たのが午前10時。会場には午後1時にお着きになりました。健常な方ならば、1時間半程で着ける距離。しかし、ご不自由なお体を押して、杖をつきながらの、わずかなひと足ひと足……。2001年春に脳出血でお倒れになられた教会員の大倉裕康兄です。
7月2日、片道3時間かけて礼拝にお出でくださいました。その姿を通して、大きな励ましをいただくと共に、人を支える信仰の力を覚えずにはおれませんでした。
 今年72歳になられた大倉兄は、50代後半に信仰へと導かれ、それまでの生き方が変えられたお一人です。このお姿に、『信仰のひと足がほんのわずかで、全然進んでいないと感じるような時こそ、そのひと足を大切にしていくんだよ。その積み重ねは、やがて、驚くばかりの実を結ぶのだから』との、天来のメッセージが聞こえてきます。
 今週も信仰のひと足を大切に、主と共に歩んでまいりましょう。

     「わたしを強くしてくださる方によって、何事でもする
      ことができる」(ピリピ4・13)            (K)

  夜明けのレース  (7月23日)

 アフリカの寓話からです。

 アフリカでは、毎朝、ガゼルが目を覚ます。ガゼルは知っている。最も足の速いライオンよりも速く走らなければ殺されてしまうことを。
 毎朝ライオンも目を覚ます。ライオンは知っている。最も足の遅いガゼルよりも速く走らなければ飢え死にしてしまうことを。

 あなたがライオンなのかガゼルなのかは問題ではありません。さて、この寓話から、どのような教訓をあなたは得ますか。その通りです。人は、夜が明けたら、与えられたあなたならではの人生を走ることです。「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分
 の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」        (ヘブル12・1~2)

  降りていく人生  (7月30日)

 本田哲郎神父は、ローマに留学、神学院教授となり、さらに世界最年少の管区長と、エリートコースを歩まれました。しかし内面では、「幼児洗礼を受け、小さい頃から人の目を気にし、どうやって親が望むことを一生懸命やろうか、先生が期待することに応えようかと、良い子になるように努力し、それなりに認められ、絶えず、背伸びしながら歩んできました」そして「自分を偽り、人を偽り、神様を偽って神父になり、説教をして得意になって、また良い説教を考える繰り返しではないか。このような働きでよいのか」と思い悩まれました。
 そのような苦悩の中、初めてドヤ街に足を踏み入れ、路上で寝ている労働者に、恐る恐る「毛布は入りませんか」と声をかけたところ、「いやあ兄ちゃんすまん、おおきに」のひと言で、本田神父の人生が一変しました。
 その時、本音の自分と出会い、もう一度聖書を隅から隅まで読み直し、今までと異なったメッセージを受け取りました。「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント12・9)。上に登る人生から、イエス様が人となられたように降りていく人生へ、教える生き方から、内なる本音の自分と出会い和解し、さらに、共に学び、励まし合う福音に出会い、変えられたのです。
 私たちも、この祝福、恵みをいただき、味わいつつ歩んでいきたいものです。

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