2007年4月の霊想
受難週を迎えて (4月1日)
本日から受難週です。世界中のクリスチャンが、様々な形で特別な一週間を過ごします。あなたはどのような計画がおありですか。一週間断食をなさる人、一日一食にしてミニ断食をする人、いつもより一時間早く起きて特別に黙想の時を持つ人……。Aさんは毎年、この一週間、一日に三人の方に福音を語ることを常としておられます。あなたならではのアイデアで一週間をお過ごしになることは、何とすばらしいことでしょう。
あなたをすばらしい者とするため主が十字架にかかられ、黄泉にまで下られたことは、私たちがどのように思いを深くしても到達不可能なほど深遠な世界です。ですから、祈りながら、その深みの一端を少しでも味わうことができることは大きな恵みです。
あなたにとって、この一週間だけが受難週なのではなく、与えられた毎日の出来事を通して、イエス様の十字架を仰ぎ見ながら日を過ごされることでしょう。しかし多くは、つい日常に流されてしまいます。ですから、神様が備えられた特別の一週間であることを心に留めましょう。
教会では、今週の祈祷会で、イエス様が弟子の足を洗われたことを思い起こす洗足祈祷会を行います。ぜひ、ご出席ください。 |
イースターの朝に (4月8日)
旧約聖書の預言どおり、イエス・キリストはあなたの身代わりとして十字架にかかり、苦しまれ、死んで葬られ、黄泉に下り、三日目の朝、日曜日によみがえり、救いを完成してくださいました。キリストの救いのみわざは、歴史上のどのような事実にも勝って意義深く、あらゆる人の人生を一変させてしまう出来事です。
〈死からよみがえられた〉とは、何よりも、罪ゆるされ、「ありのままで大丈夫」という無期限の保証をいただいていることに他なりません。この確信をさらに強化していきたいものです。
さらに、イースターの最も大切なメッセージは、死んでおしまいではない、すなわち永遠の命の約束です。と同時に、日々の様々な出来事の中で、「もうだめ、おしまい」と思うような時が新たな人生の出発点となることです。
このように、復活の出来事を、試練のただ中で祝福として味わうことができることを深く覚え、生活の現場で練習し、修練し、鍛練し、イースターの恵みをあますことなく汲み取ってまいりましょう。
今年のイースターも、この決意を確認できる恵みに感謝しつつ……。 |
力を抜く力 (4月15日)
人生『ここ一番』という時に最も大切なことは、力みがないことです。いざという時、つい肩に力が入り、思わぬミスを犯したり、言う必要のない言葉を口走って誤解を生むこともあります。余分な力を抜くコツはどこにあるのでしょうか。
ピアノのレッスンなどでも、力を抜くことをよく指導されます。確かに、ゆったりと弾くと、そこに透き通った響きを感じます。
ところが、力を抜くには、抜く力を必要とします。では、〈力を抜く力〉はどのように体得することができるのでしょうか。
自分で自分を支えることができません。自分以外の世界から力を得ることです。すなわち、力を抜く力は、祈りを通して聖霊様の力をいただくことが一番です。
今週も、あなたに命を与え、いつも最善のみをなしてくださる聖霊様と共に歩みましょう。
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって
祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げ
るがよい。
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の
平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって
守るであろう」
(ピリピ4・6~7) |
意 欲 (4月22日)
「日本の小学生は、他国の小学生と比べて物事への意欲が格段に低い」との報告がニュースになりました。このように豊かな国に住んでいれば、無理をしてがんばらなくても、と考えるのは当然のことです。
しかし、豊かになり過ぎて、不登校や引きこもりが増加しているという現実があります。私たちは、どのように対処すればよいのでしょう。
パウロが、「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」(ピリピ4・12)と語ったように、結局、大人である私たちが、どんな状況でも感謝を持って本気で生きることです。しかも、そのモデルを見せるためというよりも、ごく自然体として生きることに尽きるようです。
フランスの歴史家、アンドレ・モロワは次のように書いています。「もし、ある若者が私に『何か長編小説を書きたいのです』と言ったら、私はこう答える『君は小説を書きたいのではない。本気で書きたいのなら、今ここにはいない。机に向かっているはずだから』と」。
どんな時も感謝を持って前向きに。力まず、さりとて安易になることなく、今週も歩んでいきたいものです。 |
相づち (4月29日)
人間関係が格段に改善されたというAさんに、そのコツを伺いました。
そのお話を伺いながら、Aさんの絶妙な相づちに心打たれました。
「どうしてそのように精錬された相づちを打つことができるのですか」と尋ねると、「『相づち』の語源は、鉄などの金属を熱して打ち叩く『鍛治』の作業で、師匠と弟子とが、息を合わせて交互に槌を打つことから来ています」と語られました。ぼんやりと、何となくではなく、まさに鉄を打ち合うその真摯な姿勢、火花の出るほどの命が根源にあり、Aさんご自身が心して練習し、鍛練したことから生まれていることが、聞く側にも十分伝わってきました。
内なる自分への相づち、そして、他者への相づち。さらに、その土台となるあなたと神様との関係はいかがですか。神様があなたに示されたことに対して、「はい」と、感謝を持って従う、そんな相づちを今週もしっかりと心に覚えながら歩んでまいりましょう。
主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」
と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きま
す。お話しください」。(サムエル上3・10) |
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