2009年3月の霊想
あなたの父親は誰ですか (3月1日)
米沢興譲教会には、親子関係の悩みなど、「人生の宿題」がきっかけで教会に来られる方が多くいらっしゃいます。
A君は不登校でした。そして、「心の病になったのは親の育て方が悪いからだ」と恨んでいたのです。
しかしA君は、教会で聖書に触れ、自分の拠り所は両親ではなく全能の父なる神様であること、すべては神様にあって宝に変えられるため必要あっての出来事であることを知ったのです。
今は、「自分が不登校になったのは、親のせいでも、自分の弱さが原因でもなく、神様の栄光が現れるためだった」と語っておられます。
彼は天の父にいやしを祈り求め、自らがいやされると共に、ご自分を通して家族も変えられ、今はご両親も教会に集っておられます。
米沢興譲教会は、このような証しで満ちています。
あなたもA君のように、自分の真の父親は、肉親の父ではなく天の父であることを明確にし、親替えをすることです。A君は、そのことによって、両親をも心から尊敬できるようになられました。
さて、あなたの父親は誰ですか? |
存在の確かさ (3月8日)
「ただそこにいるだけでは価値がない」―本当にそうでしょうか。確かに世の中では、ただそこにいるだけでは何の価値もなく、出来高が大きくなればなるほど評価が上がると考えられがちです。
しかし、これでは競争が競争を生み出すだけで、行き着く先は、人間の手による人類社会や地球の破壊です。
このような時代こそ、「人間一人びとりは神の作品であり、何もできなくても、生かされているその存在だけで尊い」という聖書のメッセージ、神の言葉に耳を傾ける時です。
人の身体は約六〇兆個の細胞から成り立っています。
それぞれの細胞は目となり鼻となり、それぞれの役割を担って体の秩序を保っています。これだけでも存在の素晴らしさがわかります。さらに細胞を調べると、一個の細胞に遺伝子情報が三〇億の文字で書かれており、これは千ページの本何千冊分にもなる分量です。この文字を書いたのは人間ではなく創造主です。創造主にとって、あなたはかけがえのない唯一無二の存在です。
祈りの中で存在の尊さを深く悟ることができますように。そしてさらに、今週も、そのメッセージを語り伝える者になりたいものです。 |
どこからスタートするか (3月15日)
人生を豊かに生きることを聖書は二つの方法で示しています。あなたの今いる位置からスタートする方法と、ゴールを始点として生きる方法です。
一、自分の位置からスタートする方法「ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである」(ピリピ3・16)
今いる位置を知り、そこで全力投球すると、自ずとチャンスがあなたを迎えに来て、気がつくと前進しているという世界です。いつも自分の今あるところを感謝し、全力を尽くす方法です。
二、ゴールを始点として生きる方法「神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである」(ローマ12・3)
神様から与えられたゴールをしっかり見つめ、状況がどうであろうと、それのみを見て生きる方法です。
どちらの方法が自分に合っているかを知ることは大きな助けになります。あるいは、状況に応じてこの二つの方法を使い分けることもできます。どちらの方法もブレるということがありません。
まずは生活の中でこの二つの方法を試してみてください。最終的には、神様があなたならではの、あなた流の生き方を構築してくださいます。 |
祝福を得る秘訣 (3月22日)
「神様は、本当に私を愛し、祝福してくださるのか」と、ふと問うことはありませんか。
祝福を得るために大切なことは、「神様の無尽蔵の祝福を受けるにふさわしい自分である」という認識を明確に、強固になさることです。
イエス・キリストによって買い戻され(あがなわれ)、神の宮であるあなたは、大きな祝福をいただく条件を十分に備えておられるからです。このことを忘れてしまうと、「自分などは…」と、限られた自分の経験や自己認識の大きさに合わせて、神様の無尽蔵の祝福を輪切りにしてしまいます。
釣りをしている人がいました。大きな魚を釣ったにもかかわらず、その魚を川に戻しています。大きな魚を釣る度ごとに、すべて川に戻していました。やがて小さめの魚を釣り上げ、喜々として持ち帰りました。その理由を聞くと、「家に帰っても大きな魚を入れる器がないから」と答えたそうです。
私たちは、このような人生を生きがちです。
視点を変えて、「自分の中に祝福を盛る」という考えから、「無尽蔵の祝福の中に自分の身を託す」ととらえる逆転の発想こそ、今週、あなたが試してみるに値する豊かな生き方です。 |
祝福は形を変えてやって来る (3月29日)
「神様は私を忘れてしまったのかな…」と不安になったり、「自分に祝福が届くのが遅いのはなぜだろうか…」と嘆きたくなる時があります。
祝福がどのような形でやって来るのか、その理解が欠けていると、大きな損失を被ることになります。なぜなら、祝福は【祝福】とはっきりわかる包装紙に包まれてはこないからです。多くの祝福は【試練】という包装紙に包まれて配達されます。そのため、表面だけを見て、内に無尽蔵の祝福が詰まっている贈り物をゴミのように捨ててしまうことになります。
昨日と言わず、先週と言わず、今まで捨て去ってきたものを、もう一度思い起こし、点検してみましょう。振り返って、「あのことさえなかったら」と思っていたことが、今までの人生全体から見る時に「あのことがあったゆえに大きな祝福となっている」と、宝に変えられていることを発見します。
試練が宝に……このような生き方こそ、クリスチャンの大きな特権です。
「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅
のかしら石となった石』なのである」 (使徒4・11) |
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