2009年8月の霊想

  道を求める  (8月2日)

 『キリスト教』は、字の如く教えが中心である、と誤解する人もいらっしゃいます。実際は、キリストが「わたしは道である」と言われたように、与えられた道を主と共に歩くことです。
 キリスト自身、人々に教えることもありましたが、それ以上に、有効な弟子育てのためにいつも良き質問を投げかけました。質問をすることから、自立性、自発性、創造性が促されるからです。教えは一瞬機能しますが、自らが考え、選択していく生き方を奪ってしまいます。
 日常の人間関係でも、相手に教えた方が、問うて待つよりも楽で簡単です。もちろん、緊急の場合にはそうする必要がありますが、事の本質を見抜いて、その道を見いだすことが肝要です。
 質問され、考えることを通して、こちらも相手も答えを持たず、問いだけを共有し、考え、考え抜く生き方を身につけていきます。同じ道を歩いてもそれぞれに生き方が異なるのはそのためです。
 今週も、長期的、継続的、集中的に道を求める一週間としたいものです。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7・7)

  生かされている (8月9日)

  イギリスの登山家マロリーが「なぜ、あなたはエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるから」と答えたという逸話はあまりにも有名です。また、ある著名な登山家は、同様の問いに「山が美しいから」と答えたそうです。
 では、「なぜ、あなたは日々生きるのですか」と尋ねられたら……? ここで、この先を読まず、じっくりと考えてみてください。

 答えは千差万別でしょう。そして、どの答えも正解です。答えを考えるよりも、何とはなしに生きてしまうのが人間です。しかし、与えられた答えで生きるのではなく、自分で考え、考え、考え抜くことが人生です。《正解》はなくても、問うこと自体に人生の意味があるのです。
 最も大切なことは、「なぜ」と理由を探すことではなく、そして「生きなければならない」のでも「生きている」のでもなく、「生かされている」という恵みの原点を覚えることです。「生かされている」という心の姿勢が、恵みをあなたのもとに呼び寄せます。恵みは水と同じで、低い方に流れ、その落差が大きければ大きいほど滝のようにあなたの人生が充実していくのです。

  あなたを用いる (8月16日)

 メガトン級映画と言われた超大作、『スター・ウォーズ』は、黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』をヒントに作られました。時代を二歩も三歩も先に行く、スペクタル物語です。
 しかし、その誕生までには、ジョージ・ルーカス監督の苦難の時代がありました。1973年1月に『アメリカン・グラフィティ』が完成しましたが、ユニバーサルは作品を低評価し、公開が延期となりました。その年の4月からルーカス監督は、『スター・ウォーズ』の世界観を考え始め、5月にワーナーとユニバーサルとにそれぞれ企画を提出しましたが断られ、MGMにもはねつけられました。しかし、この真価を知った敏腕プロデューサーのアラン・ラッド・ジュニアがいる20世紀フォックスと交渉、正式に契約し、日の目を見たのです。
 あなたご自身は、神の作品として無限の可能性を持っておられます。しかし、時に拒絶されたり、誤解されたり、道が閉ざされたりします。その時に大切なことは、自分を認めてくれず、ただ「ダメだ」と言う人のところに行くのではなく、あなたに対して、「わたしの目には高価で尊い」と言ってあなたを用い、支えてくださる方と歩むことです。
 今週も心したいものです。

  人生の探検家 (8月23日)

 中世ヨーロッパで、新天地を求め、コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマなどが活躍した大航海時代の探検は、国家利益や貿易拡大を目的としたものでしたが、やがて探検は学術的な調査を目的とするものになりました。
 そして、現代の探検は、学術的な調査と共に、もう一つの目的があります。それは、人間の可能性への挑戦です。現代の探検の多くは、あくまでも未知の領域に心をかけ、挑戦することです。そこには不屈の精神が伴います。
 植村直己氏は世界初五大陸の最高峰登頂者で、犬ゾリで一万二千キロの北極圏探検を二度までも試み、二度目の探検では人類史上初の北極点単独行に成功し、北極点に到達しました。
 このような探検に挑戦する機会は、私たちにはあまりないかもしれません。しかし、あなただけの、すばらしい、そして、意義のある探検があります。それは、神の作品である自分自身との出会いの探検です。神を知ることは、神の作品であるあなたを知ることであり、神を喜ぶとは、見いだしたあなた自身に感動し、喜び、神の栄光のために用いていただくことです。
 今週も、主にある良き探検家としての一週間でありますように。

  手を上げる> (8月30日)

 教会学校のリーダーの先生が、子どもたちを夏のキャンプに連れて行く時に、手を高く上げてリードしておられる姿がとても印象的でした。
 「手を上げる」とは、目標が明確であること。手の方向は天に、すなわち神様によって目標を達成していくことなど、多くのことを教えられます。
 しかし、リーダーや頼りにする人も人間ですから、時には力を失い、「あれ?」と思う事があるかもしれません。その時、皆さんは批判や非難をするのではなく、モーセの姿を思い起こされるでしょう。
 アマレクとの戦いで、モーセは手を上げて人々を鼓舞しました。モーセが疲れて手が落ちそうになると敵が優勢になり、上げているとイスラエルが勝ちました。遂にモーセも疲れてきて手が重くなり、上がらなくなりました。その時、両側でアロンとホルがモーセの手をしっかり支えました。「それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。」(出エジプト17・12 新改訳)
 あなたも、リーダーにぶらさがるのではなく、支え手になっていらっしゃいますか。また、あなたがリーダーである時は、支え手を持つ謙虚なリーダーでいらっしゃいますか。
 今週も、しっかり確認して進みたいものです。

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