2011年4月の霊想
軽い荷 (4月3日)
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもと にきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11・28)
そうすべきと分かっていてもやる力が無く、いつも心責められたままでいる人が、この聖句で言う『律法の重荷を負って苦労している者』です。為す術が無く、ただ時が過ぎていくのを待つだけの状態では、人はストレスを感じるものです。
イエス・キリストは「あなたの荷をゆだねよ、休ませてあげよう」と約束しておられます。なぜでしょうか?
その強力な理由は、続く29節の、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」にあります。くびきとは牛に畑を耕させるために使う農耕具のことです。聖書の地、イスラエルでは、牛2頭に一つのくびきを引かせるのが通例です。つまり、あなたと共にイエス様がくびきを負って下さり、一緒にその重荷を背負って下さるのです。
30節では「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」とあります。いったん自分の重荷を神様にお返しし、今度はイエス様から与えられる軽い荷を負わせていただき、神と共に歩むことを主イエスは望んでおられます。
心の重荷を神にお任せして今日を生きて参りましょう。 |
無敵の夏 (4月10日)
冬の深さにおいて
自分のうちに無敵の夏が宿っていることを
とうとう学んだ。 (アルベール・カミュ)
人生には様々な試練があります。「なぜ」と思うことも多くあります。しかし、その出来事が深刻であればあるほど、出来事が大きければ大きいほど、ちょうど谷が深ければ深いほど希望の嶺が高いように、人生にも同じ恵みが備えられています。
カミュが見いだしたように、冬の深さがあるからこそ、そこに無尽蔵の夏(可能性)が宿っているのです。このことをしっかり覚えたいものです。
この祝福に出会うために最も必要なものは、信じ続けていく忍耐力です。
私たちの内を見る時、忍耐力が乏しいことを気づかされます。しかも、忍耐とは、頑張って、我慢して、歯を食いしばって我力で耐え抜いて得られるものではありません。真の忍耐力は、祈りの中で神様からいただく世界です。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ8・28)の御言葉を、心でくり返し唱えながら、今週も歩んでまいりましょう。 |
内から湧き出る泉のように (4月17日)
大手金融機関で働く大辻さんは、クリスチャンになった喜びを次のように語られました。
「かつては見えない手によって身体からすべての骨が抜き取られ、おが屑を詰め込まれたような人生でした。」「クリスチャンになって、今は、自分の骨が戻されたわけですね」と問うと、「とんでもない。昔の骨が戻されたのではなく、聖霊の宮である私の体、この人生にイエス・キリストがすっぽりと入ってくださったのです。ですから、私は何を為すにも、この方に聞き、この方が喜んでくださることを思い、行動計画を立てます」とほほえみながら答えられました。
大辻さんのほほえみは、作られたほほえみではなく、聖書の約束のように、内側から湧き出る泉のよう(ヨハネ4・14)で、まわりにいる人々が、ほほえみから潤いを感じるのです。
今、日本人はその生き方を問われ、多くの人々が平安を求めています。クリスチャンの特権は、自分自身が天来の平安を生きるだけでなく、人々に、「私を見てください」(使徒3・4)、と説明不要の平安を証しして生きることができることです。
今週も主が共にいらっしゃることをいつも覚えながら、イエス様と共に歩きましょう。 |
イースターに寄せて (4月24日)
キリスト教国でない日本で、不思議なほど、キリスト教用語が様々な分野で用いられています。
政治で構造改革の折、「三位一体の改革」と教理用語が新聞やニュースで用いられました。また、スポーツの世界では、一度負けたチームがもう一度挑戦し、良き成績を残すことを表す「敗者復活」などは、キリスト教の中心をなす恵み、イースター(復活)を日常語として活用している好例です。
イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかり、死んで三日目によみがえって救いを完成してくださり、今も私たちと共に生きておられます。この恵みは、「死がおしまいではない」という死後の約束のみならず、日常生活の中でも敗者復活戦を生きることができる、という天来の贈り物です。
大小様々な試練困難に私たちはぶつかります。この度の未曾有の国難とも言える大試練も、これを乗り越え、以前にも増した祝福の道へ前進しようと、今、国民一丸となっています。
日本復活のために、また、あなたの個人生活の恵みのために、イースター(復活の恵み)を日々体験し、その喜び、確かさが、まわりの人々へ自ずと伝わっていくことは何と大きな祝福でしょう。
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