2011年5月の霊想

  心騒ぐ時こそ   (5月1日)

 南米チリで昨年起きた落盤事故で、70日間にわたり地下に閉じこめられ、奇跡の生還を果たした鉱山作業員33人の指導者ルイス・ウルスアさんが、東日本大震災に瀕した日本人に、その貴重な経験から緊急メッセージを寄せて下さいました。
「悲劇から抜け出すには、希望と、信仰を持ち続けることです…。楽観的になって下さい。決して、希望を失わないで下さい。」(朝日新聞3月19日付)
 否定的情報が乱れ飛び、どこを探しても肯定的な話が聞かれない時こそ、楽観的にものを見る訓練の時です。それは現実から逃避することではありません。常に希望を見つめ、繰り返し御言葉を拠り所とする訓練の時です。
 恐れていない人に「恐れるな」と言う必要はありません。しかし人間は心乱されやすい存在であるからこそ、主イエスは「心を騒がせるな」と語って下さり、また、信仰をいつの間にか置き去りにしやすいからこそ、「神を信じ、またわたしを信じなさい」と語りかけて下さるのです。
 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14・1)

 この御言葉を信じて方向転換する時、神は必ず助けて下さいます。今一度御言葉に従い、希望を見つめる訓練に励んで参りましょう。

  母の聖書  (5月8日)

 アメイジング・グレイスという曲は、白血病で惜しまれつつ世を去った歌手の本田美奈子さんが歌ったことで日本で一躍有名になった讃美歌です。
 作詞者のジョン・ニュートンは、18世紀、ロンドンで船長の父親と敬虔なクリスチャンの母親のもとに生まれました。母親は息子が牧師になることを願い、幼い頃から聖書を読み聞かせ、讃美歌を歌い育てましたが、残念なことに彼が7歳の時に天に召されました。
 その後のジョンは母の祈りとは正反対の方向に人生の舵を取ります。22歳の時に奴隷船の船長となり、「神などいるものか」と奴隷たちを冷酷に扱う人間となっていたのです。
 しかしある日、彼の乗った船が大きな嵐に遭遇します。何の手も打てず、ただ死を待つのみ、という状況になった時、彼は人生で初めて「神様、助けてください」と心の底から叫んだのです。幸い彼は命拾いし、この日を自分の第二の誕生日と決め、母親が残した聖書を読み始めました。そして今までの人生を悔い改め、イエス・キリストを救い主として受け入れたのです。
 後に彼は牧師となり、「こんな愚かで、どうしようもない者でさえも、神様は救い出してくださった」と、この恵みの賛美を作詞したのです。
 母の祈りを神様は忘れたかのように見えました。しかし神様は言葉にならないうめきさえも祈りとして聞いて下さいます。今週も失望せず祈りを捧げて参りましょう。

  わたしにあるもの   (5月15日)

ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。(使徒行伝3・6)
 失ってみて初めて、自分にあるもの、残されているものが分かります。そしてそれは神様が用意して下さった人生の宝物です。
 阪神・淡路大震災の被災者でもあった落語家の桂文珍さんはこう語ります。「家が半壊して、3日目に寄席に出た。こんな状況で何が出来るかと思ったが、夢中でやったら、みんなが笑ってくれ、お互いに励まされた。ああ、オレには落語しかない。これしかできんのやと思った。落語家人生の分岐点でした」(読売新聞3月27日付)
 「落語」という部分を、ご自分に残されている何か、に置き換えてみたらいかがでしょうか。人生の試練の中で金銀も安定も失ってしまったかもしれません。しかし、それゆえに「私にはこれしかない」という人生の新たなエンジンを手に入れることが出来るのです。人生に手ごたえが感じられるようになるのはその時からです。そして、神が既に用意されていた道が開かれているのを目にすることでしょう。
 イエス・キリストの名の力によって今週も立って歩いてまいりましょう。

  失って得るもの  (5月22日)

 人生、予期しない出来事が起こることがあります。  明晰な頭脳を持ち、秀才の誉れ高い英国人の大学生がいました。彼はみんなの憧れの的でしたが、徹底的な無神論者であり、「神はいない」と主張していました。
 ある日、彼は突然の事故で両眼の視力を失いました。絶望の中で「天よ、なぜ私にこんな試練を与えたのですか!」と叫び、悲痛な涙を流しました。その時、ふと脳裏に浮かんだのは、かつて街で見かけた、大変苦労して生きている目の見えない人たちでした。「彼らのために何かできないだろうか」と彼は思いめぐらし、点字の研究を始めました。そして、ついに『ムーン・タイプ』と呼ばれる凹凸を開発しました。彼の名はウイリアム・ムーン。彼はまた、視覚障害者用の点字聖書もまとめたのです。
 突然の出来事で、予定をまったく変えざるを得ない時があります。そんな時、「なぜ私にこんなことが起こるのだろうか」と葛藤します。しかし、ウイリアム・ムーンのように、新しい生き方への変化の時、と捉える人もいます。もし、人生で何かを失うようなことがあった時、それ以上の多くの祝福を得る機会であることを思い起こしたいものです。
 

  幼な子のように  (5月29日)

「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」
                              (マタイ18・3)
「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である。」
                              (マタイ19・14)
 イエス・キリストは、度々、「幼な子のように」と言われました。「幼な子のように」とは、素直に生きることです。
 なぜ素直であることが良いのでしょう。
 素直であれば、物事を色眼鏡で見なくなるからです。赤は赤、黒は黒に見えるようになり、「本当のことは何か」が見え、聞こえ、感じることができるからです。
 米沢興譲教会には、『今は恵みの時』と『試練が宝に変わる』という信仰が与えられています。どのような状況にあっても、この恵みの土台がすでに据えられていることを、素直さをもって見抜き、感じ、味わう日々の歩みでありたいものです。
 素直さは、私たちの努力やがんばりで得られるものではなく、一方的な神様からの贈り物です。このことを覚え、主に願い、「そうしてくださることを信じて感謝します」と口で告白し、さらなる前進の週としましょう。
 

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