2011年7月の霊想

  明日への希望   (7月3日)

「希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたち に賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの 心に注がれているからである。」 (ローマ5・5)
 希望には2種類あります。一つは、神と和解することによって無代価で得られる希望です。もう一つは患難を経て得られる希望です。患難は忍耐を、忍耐は錬達(練られた品性)を、錬達は希望を生み出します。
 神との関係が変化し、人間の努力なしで得られる希望の方が価値が低いのではありません。一生懸命がんばって獲得できた希望の方が本物だということでもありません。神は順境の時も逆境の時も、どちらに人間がいても希望を与える方です。
 希望は、人間の気持ちの持ち方次第で消えてしまうものではない、とローマ5・5で高らかに宣言されています。神は希望を失望に終わらせはしません。「なぜなら、…聖霊によって、神の愛が…心に注がれているから」です。
 神はそのひとり子イエス・キリストを十字架につけるほどまで私たちを愛し、希望を与えようとなさいます。自らそれを捨てることなく、明日という日に希望を持って、今週も、一日一日を大切に…。

  だれのおかげですか  (7月10日)

  自分のしていることがうまくいった時、人々からほめられたり喝采を受けた時、正直、何を思いますか。実はそのような時にこそ、その人の本音が試されるのです。
 アルトゥーロ・トスカニーニはイタリアの有名な指揮者で、ベートーベンの作品を得意としていました。
 ある日、指揮者には難曲、と言われるベートーベンの交響曲第9番を指揮しました。演奏が終わるやいなや、聴衆総立ちの拍手が止みません。トスカニーニは何度もお辞儀をし、聴衆の拍手と歓呼はその後も続きました。彼は聴衆に背を向けて立ち、団員たちだけに言いました。「私は何者でもありません。みなさんも何者でもありません。すべてベートーベンのおかげです」。
 私たちは今までどれだけ多くの人たちからゆるされ、愛されて育ってきたことでしょう。しかし、それらをどれだけ覚えているでしょうか。
 そして何よりも、神様は私たちのために大きな犠牲を払い続けてくださっています。その神様に心から感謝を持ちつつ、今週も、歩み続けていきましょう。

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたした ちに対する愛を示されたのである。」(ローマ5・8)

  神の名前  (7月17日)

 聖書の「神」の名前は「ヤハウェ」です。これには、「在る、あらしめる」という動詞の未完了形が使われています。未完了形は繰り返しや継続の動作を表します。特にヘブル語の未完了形は、過去と現在の区別をしません。これは神の存在が一点に留まらないことを意味します。つまり、聖書の神に名前をつけてその性質やあり様を特定しようとしてもできないのです。
 小麦粉にたとえるとお分かりになるでしょう。練っている段階ではその物には名前がなく、完成した時、「うどん」や「パン」という名がつきます。名前がつくことで完結し、固定化されるのです。
 ところで、神を固定化すると、それは偶像になります。クリスチャンは偶像崇拝をしません。なぜなら生ける神を偶像として固定化することは、止まることであり、終わり、すなわち死を意味するからです。
 私たちが人を裁かない根拠もここにあります。裁きとは「男なのに、女なのに、父親なのに、クリスチャンなのに…」と決めつけることです。それは他人や自分、状況を固定化し、全ての可能性を摘み取ることです。
 神を信じるとは、〈絶えず新しいものを生み出す〉方と共に生きることです。今週も、内なる人を新しくしてくださる神と共に歩んでまいりましょう。

  三日分の重荷  (7月24日)

  「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、 あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、そ の日一日だけで十分である。」(マタイ6・34)
 今日一日の苦労だけをする、という明確な決心を持たなければ、三倍の重荷を抱えながら毎日を生きることになります。
 重荷の一つ目は昨日までの後悔です。「ああすれば良かった」「何でこんな事をしたのだろう」。  二つ目は誰でも負う、今日一日の苦労です。
 三つ目は「このまま行ったらどうなるのだろう」という明日への不安です。
 どんなに強い人でも、毎日三日分の重荷を背負っていたら疲れ果て、倒れてしまいます。キリストは「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と私たちの負う重荷を制限して下さっています。これは神の保証です。
 もちろん将来の計画を立てることは必要です。しかし、「まだ自分の手の中にない明日を不安がったり、もう手の届かない昨日を後悔することはやめなさい、それはせっかくの今日を損なうことになる」と、神は聖書を通して私たちに語っていて下さるのです。
 一日の終わりに「今日は十分だった」と安心して眠りにつけるように神は配慮して下さいます。明日のことは神に任せて、今日を心いっぱい生きましょう。

  事前のメンテナンス  (7月31日)

 私たちの教会を訪ねる方が、「お掃除が行き届いている」とよくおっしゃいます。それは、教会員の方々が時間を作っては掃除のご奉仕に来てくださるからです。
 アメリカなどは、教会でも学校でもお掃除専門の人がその任を担い、日本のような掃除文化がないのがとても驚きでした。しかし一方で、日本でも当事者意識を持って日常の管理をする、という伝統が失われつつあることは残念です。
 数年前、ある自治体のプールで幼い少女が浄化設備の吸水口に吸い込まれて亡くなった事件がありました。マスコミは「現場の危機管理に問題があった」と報じました。しかしこれは間違いで、事故が起きた時の管理ではなく、ずっと前から吸水口の金網が外れていた、という日頃の管理に問題があったのです。
 小さなゴミ、わずかな汚れでも心し、それをきれいに美しくすることは、私たち一人一人の生活、また、心の有り様を正す良き機会です。
 信仰生活も、汚れてから掃除をするのではなく、ディボーションで日々新たにされ、いつも輝いていることです。その時、あなたを通して多くの人々が希望を見いだします。あなたが世の光であることは何とすばらしいことでしょう。
 

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