2012年6月の霊想

  信仰の拠り所  (6月3日)

  私たちの教会は、どんなことも感謝して生きる、「すべてのこと相働きて益となる」(ローマ8・28)を土台としています。信仰の拠り所をその土台、すなわち、イエス様にいつも置きます。それゆえに、お一人びとりが様々な問題を乗り越え、宝に変えて、歩んでおられます。
 キリストは「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」(マタイ5・45)と新しい教えを語られました。
 「弱いよりも強く、貧しいよりも裕福に」と、ついそれが幸せのように思ってしまいますが、昨今の日本、そして世界において、どんな状況も受け入れる生き方こそ本物であることを人々が感じ始めています。
 次の金子みすゞ氏の『土』という詩は、まさにそのような生き方を見事に表しています。
「こっつん、こっつん、打たれる土は、よい畑になって、 よい麦生むよ。/朝から晩まで、踏まれる土は、よい 路になって、車をとおすよ。/打たれぬ土は、踏まれ ぬ土は、要らない土か。/いえいえ、それは、名のな い草の、お宿をするよ。」 
 今週も、信仰の拠り所をイエス・キリストに置き、すべてのことを感謝して歩んでまいりましょう。

  愛を引き出す隣人  (6月10日)

   ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって  良い報いを得るからである。(伝道の書4・9)  米沢興譲教会では時々、誰が見てもこのペアでは伝道がうまく行かないだろう、と見えるチームが「あえて」組まれることがあります。外向的性格の人と内向的性格の人が組む時などがその典型的例です。
 外向の人は、思っていても言わない内向の人にイライラします。内向の人は、外向の人の考え方と行動を、表だっては批判しませんが、心の中で裁きます。しかし協力しなければ伝道することはできません。そこで、数々のトラブルを経て、お互いを知ることが始まります。
 自分とは異なる相手。違うからこそ自分の欠けを相手が補ってくれる、と知った時から、歩み寄りが始まり、自分のやりたいようにではなく、相手がやりやすいペースは何か、と考え出します。すなわち、自分を犠牲にして相手を愛することを学ぶのです。これが「労苦によって良い報いを得る」ということです。
 このペアからは救われる人が必ず起きます。愛のあるところに人は引き寄せられ、愛のあるところに神がいらっしゃるからです。
 あなたの隣人は誰でしょうか?あなたから愛を引き出してくれるその人です。今週も、出会いに心を配り、神の導きを確かめつつ歩んでまいりましょう。

  視点を変えて  (6月17日)

  アルバート・アインシュタインは、「心が不健康であるとは、何度も同じことをくり返しながら、異なる結果を期待すること」と定義しました。求める結果が得られなければ、やり方を変えなければならないということです。しかし、私たちは何度も同じ事をくり返し、失望という結果を刈り取ります。ですから、自分がこのパターンに陥っていることに気がつくことが必要です。
 Aさんは、お友だちに誘われて教会に来られ、聖書の言葉を心の耳でしっかり受けとめました。「私は『物やお金が人生の幸せ』という唯物信者で、物やお金に期待し、心の平安を得ようとくり返している自分に気がつきました。そこで、物やお金に執着し続けることに別れを告げたのです。もちろん、生活レベルは以前とは大違いとなりましたが、今は、神と共にある平安があります。この喜びを自分だけでなく、多くの人に伝えたい」とおっしゃっています。Aさんがそう伝える前に、すでにまわりの人々がAさんの大きな変化に気がつき、自分もAさんのようになりたい、と願うようになっていました。多くの人が、どうしたらそうなれるのか、とAさんに問うていらっしゃいます。
 「もっともっと」と得る人生から、「何のために生かされているのか」と人生に問われている存在へと、視点を変えていきたいものです。

  なおも望みつつ信じる  (6月24日)

  
 イスラエルの信仰の祖となったアブラハムに対し、神は子孫繁栄の約束をなさいました。しかし子供が生まれることなく、妻サラと共に二人は老齢に達してしまいました。もはや身体的に子供が生まれるのは不可能と考えるアブラハム夫妻に対し、神はその約束は変わらないことを告げられます。
 しかし、アブラハムは神の約束を100%純粋に信じることができない弱さを持った人でした。彼は神の約束の純粋さを薄め、拡大解釈し、人間の理解の範囲内で収めようとしたのです。「妻サラとの間の子供でなくとも、自分の血統を継いでいればよいのではないか…」。そして、つかえめハガルとの間に子供が生まれます。アブラハム86歳の時のこと。このことが後に多くのトラブルをもたらします。その後13年間、神は沈黙されます。
 そしてアブラハム99歳の時、神は再び彼の前に現れます。人間の可能性がゼロになった時、「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」(ローマ4・18)という、自分の力を信じるのではなく、神の全能の力を信じる信仰へと導かれたのです。翌年の春、アブラハム100歳、サラ90歳の時、イサクが生まれます。神の約束は望みの絶えた二人を通して成就されました。  人間の限界が神のみわざの始まりです。今週もその神に望みを置いて歩みましょう。

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