2012年8月の霊想

  キリストのかおり  (8月5日)

 アレルギーのため肺活量が70%まで落ちた人が、医師から命の危険を警告されました。そこで彼は空気をきれいにする観葉植物を研究し、「これさえあれば密閉した瓶に閉じ込められても生きていける」という3種類の植物を選びました。アレカヤシ、アツバチトセラン、ポトスです。これらは置いてあるだけで二酸化炭素を酸素に変えたり、人に有害な化学物質を分解してくれます。
 聖書は「わたしたちは……キリストのかおりである」(Ⅱコリント2・15)と宣言しています。キリストが心の中に生きていると、周囲にそのかおりが伝わっていきます。その場にあるだけで空気清浄の働きをする観葉植物のように、神の聖さや平安が醸し出されるのです。
 故佐藤弘一兄の20周年記念式で、弟さんがこう挨拶されました。「教会の皆さんには申し訳ないが、兄が自分に語ったことはほとんど忘れてしまった」。つまりキリスト教を説明した話は残らなかったというのです。「しかし、兄のさりげない仕草や、ほんのちょっとした表情に、私は神を感じました。私にとって兄は神でありキリストでした。」と続けられたのです。弘一兄を通して放たれたキリストのかおりです。
 人の心に残るものは、意識して出すものでなく、神ご自身が私たちを通して放たれるキリストのかおりです。その神に信頼し、今週も歩んでまいりましょう。

  あらゆる環境に処する秘訣  (8月12日)

 ジャッキー・ロビンソンは、黒人初の大リーグ選手になりました。それまで野球は白人のスポーツだったのです。そのためロビンソンは、人種差別との壮絶な戦いに向き合わざるを得ませんでした。
 彼の有名な言葉に、「不可能の反対語は可能ではない。挑戦だ」「私の嫌いなことは負けることだ」があります。彼がいつも心したことは、挑み続けること、すなわち、あきらめて負けてしまいそうになる心との戦いでした。
 私たちの毎日の生活においても、難しい人間関係や思いとは異なる環境に置かれることがしばしばあります。そのような時、私たちは、ふと「こういう環境でなければなぁ……」と心に思い、言葉にしがちです。しかし、このような状況に置かれたからこそ環境に立ち向かい、「環境が人間をつくるのではなく、人間が環境を変えていく」という人生が始まるのです。
 自己中心で、自分を物差し(神)として生きてきた人生から、基準を神に置き換えましょう。「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」(エペソ6・10)のみ言葉があなたの人生を変えるばかりか、大きな希望の灯台としてのあなたを通して、まわりの人々をも照らし続けることができます。

  プラスの査定  (8月19日)

 人生の終着点が死であることは誰もが認めています。しかし、クリスチャンにとって死は終わりではありません。「肉体の死」というドアを通って、その向こう側の永遠の命の世界に入るのです。
 地上での生涯で与えられた命、時間をどのように使ったか、最終精算の時があります。それが、終わりの時、神の前で裁きを受ける時です。
 「裁き=罰」と考えがちですが、クリスチャンは「査定」と考えた方が良いでしょう。イエス様の十字架によって罪は全てゆるされましたから、もはや罰せられることはありません。ボーナスの査定にたとえると、マイナスの評価は無い、ということです。あの失敗、あそこで会社に損害を与えた…という一切が、すでにキリストという社長の息子が責任を取ってくださったので、あなたのマイナス評価はないのです。あるのは「こんなにやってくれた!」というプラスの評価だけです。
 神の裁きが恐ろしく、我が身を守るために神の御心を行おうとする生き方は、まだ神の愛を十分に味わっていないからです。「ゆるされて、プラスの評価だけが待っている」という恵みの中で「神の国と神の義とを求めなさい」というみ言葉を生きる指針としましょう。
 やがて神様からどのように迎えられるかを大事にして日々、歩みましょう。

  新しい道へ   (8月26日)

  
 熱き夏のロンドン・オリンピックも終わり、多くの感動に満ちた思い出が思い浮かびます。女子柔道の活躍もあなたにとっては思い出の一つでしょう。
 男子柔道は、1964年からオリンピックの正式種目となりました。その後、遅れること約30年。女子柔道は1992年から正式種目になりました。遅れた理由は、柔道の本家本元である日本が、オリンピックの正式種目とすることを許さなかったからです。前例がないどころか、「女子が柔道をするなどとは……」との批判もあり、あまりにも大きな壁がそこにあったのです。
 しかし、日本の講道館でも稽古を受け、『女子柔道の母』と言われるラスティ・カノコギが、ニューヨークで第1回世界女子柔道選手権大会を開催するなど、背後で私財を投げ打って今日の発展に寄与なさいました。
 日本人はよく「前例がない」「根本的理念に反する」などと言います。もちろん、しっかりと伝統を守る良き習慣を保ちつつも、それら一切を捨ててでも、まったく新しい道を生きることも覚えたいものです。
 クリスチャンにとっては、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5・17)この世界こそが人生の醍醐味です。

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