2012年9月の霊想

  祈り待ち望む  (9月2日)

  迷子になった経験のある人は、あの茫漠とした不安を想像することができるでしょう。自分がどこにいるのか分からず、さりとて、このままでいいはずがない…。
 人生の道に迷った時は、悩んだまま神にありのままを申し上げ、祈ることが救いへの道を開きます。
「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼 らをその悩みから助け出し、住むべき町に行き着くま で、まっすぐな道に導かれた。」(詩篇107・6~7)
 神は祈りに応え、最短距離で歩みやすい道へ導かれます。かわいた魂は安心で満たされ、飢えた魂は神のいつくしみで満たされます。
 ただし、往々にして、祈りが応えられるまでには間があります。神の時があるのです。私たちは今すぐ解答がほしいところですが、それまで待つ時間が与えられることがしばしばです。それは休息の時間です。
 我力の人生は、あちらでもないこちらでもないと目を血走らせながら道を探し求め、気力も体力も消耗します。しかし、祈り待ち望む人生は、しっかりと今いる所に踏みとどまり、無駄に力を費やすことなく、いざ道が示された時に悠々と進んでいく人生なのです。
 神はあなたに真の満足を与えてくださいます。祈りは応えられる、と確信しつつ今週も歩んでまいりましょう。

  天を仰いで  (9月9日)

 2012年5月に開業し、大きな話題を集めている東京スカイツリーは、建設中に東日本大震災の震度5弱の揺れに遭いましたが見事に対応しました。その秘密は、モデルになった法隆寺の五重塔の建設方法です。
 1300年ほど前に建てられた高さ31・5メートルの木造建築物は、今まで、どんな地震にも耐えてきました。その秘密は建物の中心部にある「心柱(しんばしら)」です。
 私たちの人生は、やじろべえのように右に左にと揺れながら安定を保とうとしますが、何と言っても肝心なのが縦の線です。確かに、健康のこと、経済のこと、人間関係のことと毎日さまざまなことが私たちの心を揺さぶります。しかし、いつ何時も、どこを向き、誰を信頼するか、それがあなたの人生のすべてを決めます。
 私たちにとっての心柱なるキリストこそ、あなたを支えます。わずかなパンと魚をキリストは手の上に置き、祈りました。そこに記されている大切な御言葉は「天を仰いで」です。
 問題が起きるとその方向に心を奪われ、そちらに目を向けがちです。しかし、どのような環境、状況に置かれても、心柱なるキリストはあなたの中心におられます。今週も天を仰ぎ見つつ、主と共に歩んでいきましょう。
  「主を仰ぎ見て、光を得よ」(詩篇34・5)

  約束を仰ぎ見る  (9月16日)

 アブラハムは子孫繁栄と広大な土地の約束を神からいただきました。しかし、彼が生きている間に得たのは、十人に満たない子供と墓地と畑でした。
 彼の人生は報われずに終わったのでしょうか? いいえ、彼が神の約束の実現を夢見た時、それは既に現実になったのと同じだったのです。現在、私たちが『イスラエル』という国が存在する世界に生きていることが、その証明です。
 米沢興譲教会に『根っこの会』という先輩方の集会があります。地中にあって見えないけれど、幹や枝や実に栄養分を吸い上げていく根っこのように、祈りで教会を支えておられる方々です。
 かつて木造の古い教会堂の中、十人に満たないおばあちゃんたちは、「百人礼拝、千人礼拝の大会堂を」と熱心にたゆまず祈り続けられました。「そんな会堂など全く無理」という現実が数知れずありました。にもかかわらず祈り続けたのです。そして今の礼拝堂があります。
 おばあちゃんたちの多くはその実現を目にする前に天に帰られましたが、心の中で既にその大会堂を見ておられたのです。
 神の報いは信じたその瞬間から始まります。今週も信仰の目を上げ、御言葉に根ざして進んでまいりましょう。

  大人になるとは   (9月23日)

  
 ドイツの作家、ヘルマン・ヘッセの言葉です。
「子どもから大人になるのは、ただの一歩、ただの一ま たぎにすぎない。孤独になること、自分自身になるこ と、両親から離れること、これらが子どもから大人に 進む第一歩なのである。」
 生理的年齢としてではなく、精神的・霊的に大人になるためにもまったく同じことが言えます。
 「孤独になる」とは、孤立することではありません。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46・10)のみ言葉に従い、神様との交わりを確立することです。
 「自分自身になる」とは、神の作品であるあなた自身と対話し、本音を見いだし、その本音を主にあっていつくしむことです。
 「両親から離れる」とは、地上の両親をなおざりにすることではなく、この世のしがらみなど、地上の一切のからみつくものから距離を置くことです。また、地上のもので握っているものがあれば、それを手放していくことです。
 神様は私たちに、地上のものを通して未来を見るのではなく、天の窓を通して未来を描きつつ、地上にあるものに処していく生き方を願っておられます。
 今週も心して歩んでまいりましょう。

  神を避け所とする   (9月30日)

  
 神が共におられる時、前向きにどんどん進んでいくことができます。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8・31)
 このような勢いある生き方の勧めと同時に、聖書の至る所で、イエス様が静かな場所を選んで退かれたことが書かれてあります。「しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた」(ルカ5・16)
 神の子のイエス様でさえ、あえて休みを取り、活躍の場から意識的に退かれました。
 聖書は立ち向かうだけではなく、退くことを重要視しています。現実から逃避することではなく、「神を避け所とする」ことです。
 その時は、じっくりと「主を待ち望む」のです。一滴一滴したたり落ちる天からのしずくを受け、じわりじわりと神の恵みがしみ渡ってくるのを感じながら、カーッと燃え立った自分を冷まし、神の前には無に等しい一人の人間に戻る時間なのです。
「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イザヤ40・30~31)
 今週も神を避け所とする静かなひとときを持ってまいりましょう。

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